壁がすぐ目の前に迫る。3メートル頭上の天窓からは光が差し込む。机をはさんで2人座ればいっぱいになる特別室が元学習塾講師、蒋旻正(しょう・びんせい)氏(28)の教室だ。
「授業はたったの15分。しかも2週間に1回だけ。これが香港政府に許可された補習時間なのです」
蒋氏が1月から通うのは香港北部の拘置施設である。高3の男子生徒(18)ら5人を1人ずつ教えている。反政府デモで逮捕・起訴された若者たちだ。
5人の保釈が認められていないのは、「爆弾所持や暴動など重大な罪に問われたためだろう」という。
デモが本格化した昨年6月以降の逮捕者は約7700人。このうち中高生だけで約1200人に上る。
所属の学校が親政府・親中国系の場合、校長はおろか、先生さえも拘置施設に面会に来ないことがある。
「それでは生徒があんまりではないか。絶対に見捨ててはいけない」
蒋氏は今、北区議会議員(民主派)を務めるが、昨年11月の選挙で当選するまでは塾の講師をしていた。
モットーがある。「先憂後楽」。天下国家については人より先に心配し、楽しみは人より後で-。昨年、逃亡犯条例改正案への反対デモに参加し、選挙に出馬したのも「この信条を実践したかった」からだ。
とはいえ、気になるのはやはり学生たちのこと。逮捕歴があれば、かなりのハンディを覚悟せねばならない。だからこそ「目標をもつ大切さ」を伝えたい。民主派団体の要求で補習が初めて認められたとき、自分の出番だと思った。
香港ではちょうど3月下旬から、大学入試がスタートする。逮捕された学生も原則、受験できる。
拘置施設では15分の授業しか許されていないので、蒋氏は毎回、自習用の特別教材を作って渡している。だが、施設に入る前に検閲を受けなければならない。
「係官は1ページ、1ページじっくり見ていますよ。反政府、反中の文章があれば許可しないつもりでしょう」
授業中、係官はいない。室内は2人だけだ。
『抗議活動の状況はどうなっていますか』。そう聞かれるときが一番つらい。『今は新型コロナウイルスが大問題になっていてね。でも感染が収まれば…』
蒋氏に取材したのは、団地内の彼の事務所である。インタビューの途中で住民たちが訪ねてきた。それを見やりながら蒋氏は自らに言い聞かせるようにいう。
「防疫対策をめぐって政府への不満が高まっています。董建華(とう・けんか)初代行政長官を追い詰めた2003年の大規模デモも、重症急性呼吸器症候群(SARS)が収まった直後に起きました」
住民たちが大事そうに蒋氏から受け取っていたもの、それは5枚のマスクだった。(香港 藤本欣也、写真も)