逮捕から20年 今も事件史に刻まれる重信房子受刑者 

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逮捕から20年 今も事件史に刻まれる重信房子受刑者 

 「重信逮捕! 重信房子逮捕!」「1面トップや」

 私より一回りほど上の団塊の世代と呼ばれる編集幹部たちの興奮した声が編集フロアに響き渡った。

【写真】国際手配中の日本赤軍メンバー似顔絵

 20年前の平成12年11月8日の昼前、夕刊の編集時間帯だった。その年の夏まで大阪府警の警備部担当記者で、「重信房子」という名前は知っていたが、「そんなに騒ぐことなのか」と冷めた目で見ていた。

 逮捕の3カ月少し前。

 「知らない女が出入りしとる」

 日本赤軍の国内支援者をマークしていた大阪府警公安3課の捜査員が、アジトとしてマークしていた大阪市西成区のマンションで、女の出入りをキャッチしたのは同年7月下旬だった。

 当初は支援者とみていたが、ほかの支援者が女に深々と頭を下げる場面があり、「何者や」「重信房子か大道寺あや子が日本に戻ってきたのでは」となり、女の尾行が始まった。

 大道寺あや子容疑者(72)は今から40年以上前の昭和49、50年の連続企業爆破事件で指名手配されており、重信房子受刑者(75)とともに大物女性逃亡犯だった。捜査員は大いに沸き立った。

 しかし、長年の海外逃亡。当時、ICPO(国際刑事警察機構)から入手した最新という5年前の写真でも判別は付かなかった。昭和46年2月にアラブに渡る前の重信受刑者を行確(行動確認)、尾行していた公安3課の前身の公安1課「学生班」にいた元捜査員も女の顔写真をみせられたが、確証はなかった。長髪をなびかせた当時の容姿とかけ離れていたからだ。

 ただ、この際に元捜査員からもたらされた情報は貴重だった。身長、体形、黒のパンタロンスーツを着こなす洗練されたファッション、紙たばこを吸う際にキセルのように優雅に吸う姿。顔ではわからなかったが、女と一致していた。

 ほぼ24時間態勢で行確を続ける中、チャンスが巡ってきた。女が飲んだコーヒーの空き缶から指紋を入手できたのだ。これが決め手で、“女闘士”は、潜伏先の大阪府高槻市内のホテル前の路上で逮捕された。

 長年にわたる大阪府警の愚直な捜査が結実した逮捕劇だった。その一端にかかわった元捜査員は、「今は支援者もわずかで高齢化した。時代の移り変わりを感じる」と振り返る。別の捜査関係者は国内過激派について「今は表立って見えなくても、時が来れば何かをやってくる可能性がある。そんな怖さがある」と警戒感を示す。

 少し冷めた目で見ていた逮捕劇だったが、20年たった今も携わった人たちの脳裏に刻まれている。時代を象徴する事件だったと改めて感じる。

 (大津支局長 野瀬吉信)

日本赤軍 赤軍派幹部を経て1971(昭和46)年にレバノンに渡った重信房子受刑者(75)を最高幹部として結成。イスラエル・テルアビブの空港で自動小銃を乱射し、約100人を死傷させるなど各地で事件を繰り返した。重信受刑者はオランダのフランス大使館が武装占拠された74年のハーグ事件に関与した疑いで2000(平成12)年11月8日、大阪府高槻市の路上で大阪府警の捜査員に逮捕された。裁判ではハーグ事件に関して無罪を主張したが、懲役20年の判決が確定。令和4年に刑期満了となる見通し。重信受刑者は逮捕後に解散を表明したが、現在も乱射事件の実行犯とされる岡本公三容疑者(72)ら7人が国際手配されている。

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