リアル北斗の拳? 鉄道略奪で見えた南アフリカの素顔編

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リアル北斗の拳? 鉄道略奪で見えた南アフリカの素顔編

 私がその現場に立ったのは、10月26日のことだった。視界のかなたまで続く電柱とはりには、どこまで行っても電線が架かっていない。足元を見ると雑草が枕木の間から生え、ひざ丈ほどまで伸びている。半年以上も電車が走っていないのだから無理はない。雑草は日本で見かけたことがないケシの一種で、黄色いかれんな花が妙にいとおしく思えた。「ここまでとは」。その荒れた光景に私は目を疑うしかなかった。そして、自分が赴任できずにいた半年余りの間にこの国で何が起きていたのか、現実の厳しさに改めて思いを巡らせた。

 ◇在宅勤務中に日本で知ったニュース

 私は3月まで奈良市の奈良支局にいた。デスクとして支局の記者に取材を発注したり、送られてきた原稿をチェックしたりするのが仕事だった。そして4月1日付でアフリカのサハラ砂漠以南の49カ国を担当するヨハネスブルク支局に赴任する予定になっていた。ところが南アフリカ政府は3月下旬、新型コロナウイルスの感染拡大を受けてロックダウンを実施する。食料品の買い出しや医療機関の受診だけが認められ、ジョギングなど屋外での運動も禁止する徹底ぶりだった。国境を閉鎖し、国際線も原則全て休止。3月30日に関西国際空港から家族4人で渡航するはずだった航空券は、ただの紙切れとなってしまった。

 やむを得ず、4月から日本で在宅勤務をしながら待機することになった。現場取材ができないのは記者にとって痛恨の極みだが、インターネットなどでアフリカの地元ニュースをチェックする時間だけはたっぷりとあった。

 南アフリカの鉄道路線で設備の略奪が進んでいるらしい。そんなニュースに接したのは9月のことだった。地元メディアによると、3~6月にロックダウンで運休している間に設備の略奪や破壊が相次ぎ、通勤電車34路線のうち運行できているのは7路線だけ。全面再開のめどは立たず、経済的な打撃も大きくなりそうだ――。そんな内容だった。

 日本は世界に類を見ないほど鉄道網が発達した国だ。東京の地下鉄はまるで迷路としか言いようがないし、新幹線が北海道から九州まで走る。「正確で安全」という鉄道への信頼とプライドが日本人の心理に深く根ざしているためだろうか、海外ニュースでも鉄道関連の話題は注目度が高い。「国際線が再開して南アフリカに赴任できたら、真っ先にこの現場を見てルポを書いてみたい」と私は一人、決意した。

 チャンスはほどなくしてやってきた。南アフリカ政府は10月1日に国際線を再開し、半年ぶりに外国人の入国を認めると発表したのだ。

 日本から南アフリカまでの直行便はない。そのため私は10月17日、成田空港から中東カタール経由でヨハネスブルクに向かった。カタールまでは12時間、2時間半の乗り継ぎを経て、さらに9時間のフライトというほぼ丸一日がかりの長旅だ。日本との時差は7時間。時差ぼけになるかと心配だったが、機内での時間があまりに長すぎて時間の感覚がなくなってしまったというほうが正確だった。

 ヨハネスブルク国際空港では、入国審査の前にサーモメーターでコロナ対策の検温があった。日本出国前に取得したPCR検査の陰性証明書を提示すると、あっさりと入国のスタンプを押してもらえた。南アフリカでは陰性証明を提示した上、発熱などの症状がなければ、入国後の隔離は求められない。空港から出れば即自由の身だ。原則14日間の自主隔離が必要な日本政府などの対応と比べると「緩い」とも言える。

 南アでは人口約5800万人に対して新型コロナの感染確認は75万人に上り、2万人が死亡した。政府は国民の2割程度が既に新型コロナに感染した可能性があると見ている。最近は1日の新規感染者数が2000人程度で落ち着いているが、ウイルスを完全に封じ込めることができない以上、感染拡大防止と社会・経済活動のバランスを取りながら生活する「ウィズコロナ」を地でいく政策にかじを切っている。

 ◇ここはオーストラリアか?

 「オーストラリアみたいだ」。それが、空港を出て、迎えの車で支局兼住宅まで向かった時の街の第一印象だった。私は2014~18年にインドネシア・ジャカルタで特派員を務めていた。かなり離れてはいるがオーストラリアも担当地域で、選挙や安全保障、イスラム過激派などのテーマで度々出張で訪れたことがある。

 降水量が少ないため日本のような青々とした森は少ないが、青空がきれいで空気はカラッとしている。6車線もあるゆったりとした高速道路にはスポーツタイプ多目的車(SUV)やピックアップトラックが多く走り、出口を抜けると広い庭付きの邸宅が並んでいた。街中の看板は英語で、車は右ハンドル。やはりオーストラリアに似ている。ヨハネスブルクはインターネット上では「最凶都市」とやゆされるほど治安の悪さで有名なのに、先進国と変わらぬ光景に、支局に到着してもいまいちピンとこなかった。それには相応の理由があることを後に知った。世界トップクラスの貧富の格差が背景にあったのである。

 南アでは20世紀に入り、人種隔離政策「アパルトヘイト」が進んだ。人口では2割以下の白人が政治、経済、文化、教育などあらゆる面で優位に立つ一方、有色人種には選挙権すらなく人権が著しく制限された。黒人らで結成された「アフリカ民族会議」(ANC)が反対闘争を繰り広げ、そのリーダーがネルソン・マンデラだ。闘争や国際世論の後押しもあり、アパルトヘイトは1991年に廃止に至った。

 ところが制度上の差別がなくなっても、経済的な格差は残ったままだ。世界銀行によると、所得の貧富の格差を示すジニ係数は、南アは0.62で世界トップ。上位3500人が保有する資産が、下位9割のそれとほぼ同じだというのだから、いかに格差が大きいかを物語る。ちなみに日本のジニ係数は0.329だ。

 こういった社会の矛盾を背景に犯罪も多く、1日平均58件の殺人事件が起きている。日本の外務省は「生命や性の尊厳が軽視され,いとも簡単に人が殺傷されてしまう凶悪犯罪が頻発している」と分析し、旅行者や在留邦人に注意を呼びかけている。

 何のことはない。私が空港から家まで見ていたのはこの国の「先進国」の世界。高さ3メートルの塀と電流フェンスに囲まれた家の中で暮らす「井の中のかわず」に過ぎなかったのだ。

 ◇安全に取材できるのか

 「鉄道が略奪された現場に行ってみたい」。着任して数日後、私は支局助手のケレ(59)に電話でこう伝えた。ケレは黒人で本業は俳優だ。旧黒人居留区(タウンシップ)のソウェト地区に住む。縁あって20年以上、毎日新聞ヨハネスブルク支局の非常勤助手を務め、歴代の特派員が世話になってきた。記者が取材で行きたがるのは普通の日本人が行かないような「危険な場所」が多い。ケレは広い人脈を生かしてどんなリクエストにも応えてきた百戦錬磨のベテランだ。「まかせろ」。ケレからの返事は何よりも心強かった。

 最初の取材日は10月26日と決まった。ケレと一緒にソウェトを中心に車で回ることとなった。取材日が迫るにつれて期待が高まる一方、もやもやと不安になってきたのが「自分の安全は確保できるのか」という問題だった。

 日本の旅行ガイド本では、ヨハネスブルクについて「街中を歩くことはよほどのことがない限り避けるべきだ」とある。さらに同じヨハネスブルクでも、支局兼自宅があるサントン地区からソウェトまでは40キロ以上離れていて、高速道路を使っても1時間弱かかる。異国の地でいきなり高速道路に乗って、危険な地帯を巡るのはちょっとどうか――。ケレに支局まで迎えに来てもらうという手もあるが、あいにくケレの車は故障中だった。コロナの影響で本業が休業状態で、多額の修理代がなかなか工面できないでいるという。マイカーで現場を回るのは仕方ないとしても、治安の悪い屋外に何度も車を止めたら、自動車盗にでも遭わないだろうか。そんな妄想が膨らんだ。

 前日の25日夜、「弱虫」と笑われるのを覚悟でケレに電話をしてみた。「歴代の特派員とずっと仕事をしてきたケレに聞くには愚かな質問だけど、明日は安全に行けるかな」。ケレは不安を見透かしたように「問題ない」と笑った。説明によればケレの家の周辺は地元出身の人が多く、「よそ者」や海外からの移民は少ない。そのため住民同士の監視の目があり、他の町と比べても安全だから私が一人で来ても大丈夫だという。問題は取材現場での間の安全確保だが、ケレは「心配するな。2人用意するから」という。「2人」とは何なのかよく分からなかったが、これだけ念を押したのだから大丈夫だろう。自分をそう納得させてベッドに入った。

 ◇衝撃の現場

 26日は午前8時半に車で家を出た。初めての高速道路で運転に不安もあったが、スマートフォンに入れている地図アプリがカーナビになるので、日本語の音声ガイド付きで道に迷うことはなく、1時間ほどでケレの自宅に到着した。ケレの家の周辺は日本のニュータウンのように区画整理された場所にあり、自宅敷地も200平方メートルはある、門構えもきちんとした家だ。

 ケレが20代の若い男性2人を紹介してくれた。「セキュリティー(警備員)」だという。Tシャツにズボンというラフな格好で、武装しているわけでもないが、ケレを信じるしかない。2人を後部座席に、ケレを助手席に乗せて現場へ車を走らせた。

 まず向かったのがレンズという駅だった。電車は来なくなったが、駅前には市場や店、露店が並びにぎわっている。ただしほとんど黒人ばかりで、白人はまったく見かけない。ゆったりと邸宅がならぶサントン地区とは雰囲気がまるで違い、2年半前まで暮らしていたジャカルタを思い出した。

 冒頭にも記したように、線路に入ってみても電線が一切見当たらない。盗んでも売れないからだろうか、絶縁機器だけがだらんとぶら下がって風に揺れていた。線路脇の地面は深さ30センチほど溝状に掘られている。地中から信号ケーブルが根こそぎ取られた跡だった。電車が通らないので、住民は踏切以外の場所でも遠慮なしに横断していく。

 駅のホームは、床のレンガがところどころはがされていた。地下のケーブルを抜き取るためだ。ホームの待合室はゴミが散乱している。一部は放火されたのだろうか。燃えかすのようなものが残って焦げ臭い。待合室の中ではホームレスらしき男4人がたむろし、甲高い声で談笑していた。写真を撮ろうとすると、「危ないからあいつらには近づくな」とケレに引き留められた。

 「リアル北斗の拳」。治安が悪く暴力がはびこる国や地域のことを、人気漫画「北斗の拳」のストーリーになぞらえてこう皮肉ることがある。荒廃した現場を目にしてよぎったのはまさにこの言葉だった。

 南アフリカではマイカーが持てる中間層以上は、この通勤電車は治安や利便性が悪いこともありほとんど使わない。電車がなくなって一番影響を受けるのは貧しい庶民だ。

 レンズ駅前の家具店で働く男性店員のファニさん(34)は、ここから約15キロ南のオレンジファーム地区にある自宅から毎日通勤している。通勤費は電車だと定期券が使えるため週に40ランド(約270円)程度。ところが電車はロックダウンの規制が終わってからも再開しないため、現在は乗り合いの小型バスを使わざるを得ない。これは1日48ランド(約330円)かかる。ファニさんの稼ぎは週給750ランド(約5100円)くらいなので、週5日出勤すると給与の3割ほどが通勤費で消えてしまうという。「生活が厳しい。早く復旧させてほしい」。そう訴えるファニさんの瞳は切実そのものだった。

 そんな話を耳にしながらも、私は新型コロナで在宅勤務が続いてきたため、久しぶりの現場取材で興奮状態だった。そこでふと我に返って気になったのが自分の車のことだった。線路脇の空き地に駐車してロックをかけたが、ヨハネスブルクは自動車盗が多いことでも有名だ。ただでさえ治安がよくない下町に車を置いておいて本当に大丈夫なのか。

 よく考えると、警備員だと言っていた2人のうちの1人が自分のそばにいないことに気付いた。一通り取材を終えて車に戻ると、車の前で周囲の人と雑談しながら待っていた。

 なるほど。警備の1人は私とケレに同行する。私は明らかに東洋系の「外国人」だし、カネを持っていると見られて犯罪のターゲットになりやすい。ケレもいるが多勢に無勢で襲われる恐れもあり、もう1人若い黒人男性が同行しているだけでずいぶんと安心感がある。残った1人は車の見張り番だ。「2人」の存在意義がようやく分かって、ケレの手際の良さに感心した。

 現場に出てもう一つ驚いたのが、ケレがいかに有名な俳優かということだ。

 「ポパイ、ポパイ!」。見ず知らずの人でもケレを見かけると向こうから声をかけて近寄ってくる。老若男女を問わない人気で、私はスマートフォンでケレとの記念写真を何人分も撮ってあげた。「ポパイ」というのはケレが05~08年に出演した南アフリカの人気テレビドラマでの役名だ。ケレが一緒なら街頭で初対面の人にインタビューしても、あっという間に打ち解けられるので話が早い。

 次に訪れたアングラース駅は、屋根のない対面式ホームと歩道橋だけがある無人の駅だ。ここも線路の電線はほとんどなくなっていたが、駅は元々設備があまりないためか被害は目立たない。一方で駅前に広がる「シャック」と呼ばれる掘っ立て小屋が目を引いた。土地は10メートル四方くらいできれいに区割りされているが、各小屋は小さいものでは3メートル四方ほどしかなく、木の骨組みにトタン板を打ち付けただけ。窓すらない家もある。申し訳ないが「家畜小屋ではないか」と衝撃を受けた。家の間では地元の子供たちが無邪気に遊び、決して単身用住宅ではない。最貧困層の人たちが無許可で住んでいるエリアだったのだ。

 家の構えはさておき、本来ならば駅前で利便性はいいはずだが、ここにも電車は来なくなった。建設作業員のセネオさん(30)は「電車なら1日22ランド(約150円)で通勤できるのに、乗り合いバスなら70ランド(約480円)かかる。ロックダウンが緩和されて徐々に仕事は戻ってきたが、生活は大変だ」と訴えた。

 極めつきは、特に治安が悪いことで知られるクリップタウン駅だった。駅の東側は路上も含めたマーケットでにぎわう一方、西側には粗末な家が密集する。「皆で固まって動いて全方位を警戒するように」というボディーガードの一言に緊張が高まる。

 駅舎は廃虚同然だった。プラスチック製の待合用の椅子は粉々に砕かれ、金属製の階段の手すりは根元から切り取られてなくなっている。インターネット上で過去の写真を見ると、ホームには一部、青い金属製の屋根があったはずだが、跡形もない。事務室、トイレ、切符売り場……。略奪や放火の被害に遭い、駅舎の屋根は抜け落ちて内部はがれきの山だった。重すぎて盗めなかったのだろうか。高さ1メートルほどの大型金庫だけが手つかずで残っているのがなんとも皮肉だ。

 ホームを歩いていると、男5人ほどが線路脇を掘っているのが見えた。30メートルほど離れた場所から望遠レンズを向けると、そのうちの一人が何かを叫んだ。「写真を撮るな」。何と、白昼堂々、地下ケーブルを盗んでいる現場に出くわしたのである。地元の住民によると、電線やケーブルはプロによる組織的な犯行であらかた盗まれてしまったが、地元の若者らが「残り物」を狙う犯行が後を絶たないという。「ちょっとしたケーブルでも、売ればその日のドラッグ代くらいにはなるからさ」とある住民が肩をすくめた。違法薬物中毒が犯行に駆り立てることもあるようだ。

 この日は当初、ソウェト以外でも略奪された駅を回る計画にしていた。ところが4時間ほどソウェトで取材しているだけで、ほとほと疲れてしまった。慣れない運転、自分が襲われないかという不安、さらに犯行現場に遭遇と緊張の連続だった。時間的に他の地域を回れないこともないが、帰路にまた1時間、自宅まで車を運転しなければいけない。私の体力は限界に達していた。

 現場の衝撃的な写真は手元に十分確保できたこともあり、ケレたちと遅めの昼食を取って解散することにした。帰宅後も疲れがひどく、午後8時には寝てしまった。

 翌朝起きると、記事として世に出すには何か物足りない気がした。再びケレに電話をかけて相談した。やはり百戦錬磨である。ケレは思わぬ腹案を出してくれたのだった。

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