▲1991年、長鼓(チャンゴ)墳で初めて内部構造を明らかにした全南咸平新徳古墳。典型的な日本式古墳(長鼓墳あるいは前方後円墳)と分かって学界の関心を集めた。しかし発掘調査報告書は出なかった。|国立光州博物館提供
「いやこれは…。」 1991年3月26日、全南(チョンナム)咸平(ハムピョン)新徳古墳を調べた国立光州(クァンジュ)博物館調査チームは目の前に繰り広げられた光景に話す言葉を失ってしまった。古墳の原形部西側に盗掘口が見えたのだ。さらにこの盗掘口はわずか数日前に作られた跡が明らかだった。
(中略:盗掘犯は2年半後に逮捕。以下長文につき、日本関連のみ抄訳。元記事に出土物など写真多数)
国立光州博物館などは4月から40日以上、本格発掘を行った。発掘が終わると学術資料蓄積のために通常は発掘調査報告書を出す。ところが、同博物館は苦心の末、新徳古墳発掘報告書をださないことにする。行政報告書を作っただけだ。なぜこんなことが起きたのか。新徳古墳が初めて公式に調査されたいわゆる長鼓墳だったからだ。
日本では「前方後円墳」という。「前は四角(前方) 後ろは丸(後円)」の形から名付けられた墓(墳)だ。韓国では「長鼓(チャンゴ)」に似ているとして「長鼓墳」という。西暦3世紀中葉~6世紀後半にかけて日本で流行し、日本全域に2000基以上分布している。日本古代国家形成期の日王墓は全部この形だ。最も有名な長鼓墳は399年に死亡したニントク(仁徳)日王の墓だ。
新徳古墳が初めてではない。日帝強占期に日本の学者が、その後も1972年に韓国の学者二人が「忠南扶余に長鼓墳がある」と主張した。韓国考古学界は蜂の巣を突付いたように沸き立った。緊急文化財委員会が招集されて二人の発表を聴取した。しかし、文化財委員の反応は冷たかった。雲をつかむような話だけに発掘調査する必要はない、と一蹴した。
その12年後、1983年6月、カン・イング嶺南大教授がさらに一歩出る。「慶南固城(コソン)などと、全南羅州・霊岩・務安・咸平など様々な場所に長鼓墳が見える」と主張したのだ。国内学界では特に注目しなかった。もちろんカン教授は「‘前方後円墳’(長鼓墳)は日本の固有墓ではなく、韓半島から渡って発展したもの」と主張した。国内学界は特別な反応を見せなかった。
日本学界は二つに分かれた。元老学者は主に日王家系で神聖視される墓の形態が韓半島に存在するはずがないと首を横に振った。しかし「韓半島長鼓墳」を任那日本府と連結する人々が現われた。一部は長鼓墳が特に固城など伽耶地域で確認されるというカン教授の主張に興奮した。それこそ任那日本府の決定的な証拠ではないか。
そのような状況でもう一つの長鼓墳として知られた新徳古墳が初めて正式発掘された。果たして日本の古墳形式という長鼓墳だった。墓内部にも日本色が見えた。天井と4壁、扉の内側は全部朱漆がされていた。赤く塗られていたという事だ。出土した大型刃物は取っ手の穴が船山古墳(熊本県)の遺物と類似の形だ。墓では武寧王陵で使われたコウヤマキ製の棺の跡が見えた。金銅冠と金銅履き物の破片も数点出土した。
このような状況で報告書をだしても日本の学界に利用されるだけではないか。実際、1994年5月20日の日本朝日新聞1面主要記事で「韓国光州の明花洞(ミョンファドン)古墳で前方後円墳に似た古墳が発掘された。日本文化もまた韓半島に流入したことを立証する」と報道している。
朝日新聞の記事が報道された翌日(21日)、明花洞古墳を発掘した国立光州博物館に大統領府教育文化首席が電話してきて「私たちがあちら(日本)の支配を受けたという事か?何か対策が必要ではないか」と注文したのだ。当時は日本の近・現代史歪曲のために死にそうな時だった。
長鼓墳発掘が続いて資料が蓄積され本格的な議論が進められた。この墓の起源は韓半島か日本か、また、墓を作ったのは日本人(倭人)か、百済人(あるいは馬韓出身の土着勢力)か。
結論は何か。韓国人か日本人か明らかにしろと問い詰めるなら言えることはない。むしろそんなこともあって、あんなこともありうるというのが正解であろう。
5世紀末~6世紀前半、栄山江一帯は想像よりはるかに開放的だったのかもしれない。日本を訪問した百済人が巨大な日本の長鼓墳を見て帰ってから似た墓を作ったのかも知れない。また「外国人優待政策」をとった百済の朝廷に出仕して百済官僚あるいは貴族になった倭人の墓もありうる。
いずれの場合でも今の瞬間の民族感情で1400年前を裁くのはいかに偏狭なことか。
おしまい
ソース:京郷新聞(韓国語)30年前’隠蔽’といいながら隠した日本式古墳…もう話せる
https://m.khan.co.kr/culture/culture-general/article/202108240500001