1972年2月に起きた「あさま山荘事件」から今月で50年。武装した「連合赤軍」の若者らによる事件はテレビでも中継され、社会に大きな衝撃を与えた。現場で実況した元日本テレビアナウンサーの久能(くのう)靖さん(86)が取材に応じ、「壮絶な戦場だった」と振り返った。(菅原智)
親にも銃口
あさま山荘事件の写真を見ながら現場の様子を振り返る久能靖さん(1月28日、神奈川県鎌倉市で)=今利幸撮影
「長野で銃撃戦があった。現場に向かってくれ」。東京・麹町にあった日本テレビ本社で一報を聞いたのは、72年2月19日の夕方頃だった。報道担当のアナウンサーだった久能さんは、すぐに車に乗り込んだ。
連合赤軍は、70年に「よど号ハイジャック事件」を起こした赤軍派と、別のグループが合体した「新左翼」。60年代後半の学生運動が勢いを失う中で先鋭化し、群馬県の榛名(はるな)山などに潜伏して軍事訓練を積んでいた。
この日、警察と銃撃戦の末、山荘に1人でいた管理人の妻を人質に立てこもったのは、当時16~25歳の男5人。母親らが涙ながらに拡声機で人質の解放を呼びかけたが、男らは威嚇発砲で応じた。「親に銃を向けるなんて……」と衝撃を受けた。
機動隊が夜間に投光器を当てたり、催涙ガス弾を撃ち込んだりしたが、1日、また1日と過ぎていく。「なぜ早く突入できないのか」。久能さんはもどかしさを感じたという。
決死の中継
巨大な鉄球で壁を打ち壊した山荘に放水し、突入を図る機動隊員ら(1972年2月28日)
「突入命令が出されました!」。10日目の同28日午前10時頃、突入作戦が始まると、久能さんはマイクを握って声を張り上げた。
報道陣は山荘からわずか約30メートルの斜面でカメラを構えていた。巨大な鉄球をつり下げたクレーン車が姿を見せ、ズドンと音を立てて山荘の壁を打ち壊す。
銃声や手投げ弾の爆発音が続く。負傷した警察官が次々と運ばれていった。
パシッ。近くで木の枝が折れる。銃弾だ。地元テレビ局のカメラマンが足を撃たれていた。警察から避難を求められたが、「目の前で起きていることを日本中に伝えなければ」とマイクを握り続けた。
作戦開始から約8時間。午後6時過ぎ、人質の女性が無事救出され、メンバー5人が確保された。突入を中継したNHKと民放各局の視聴率は合計で89・7%に達した。