高度経済成長期が終焉を迎えたのは、1970年代半ば。同時期には、終戦直後生まれの団塊の世代が成人し、家庭を持つようになっていた。
【写真】1970年代初頭の多摩ニュータウン。開発途上で、今では懐かしい光景がそこに在った
■「ニュータウン」という新たな市街地開発
それまでも、都市部への人口集中による住宅不足が深刻な社会問題となっていたが、この時代に一層の住宅供給が必要となった。そこで、全国の大都市周辺地域で進められたのが、「ニュータウン」という新たな市街地開発だった。
郊外にある、それまでは農地や野原だった土地を造成し、新たな街区を計画。そこに住宅を大量に建設し、同時に交通や生活インフラも整備するというものだ。
首都圏では、都心から30〜40キロ離れた多摩、神奈川県の港北、千葉などで、そうしたニュータウン開発が行われた。
■戦後最大の都内の住宅開発「多摩ニュータウン」
1976年の多摩地区の写真では集合住宅が並び建つ地域の手前には、未だ造成中の土地が見える。
戦後最大の都内の住宅開発とされるのが多摩ニュータウンだ。東京都の多摩市、八王子市、稲城市、町田市にわたる、面積2853ha、戸数約10万戸、人口約22万人という巨大コミュニティの形成が計画され、その範囲も住民の規模も巨大だった。
昭和44(1969)年6月には多摩ニュータウンの起工式が行われ、昭和46(1971)年に多摩市の諏訪地区の団地へ、ニュータウンの第1次入居が始まっている。
その1971年11月には、“多摩町”は多摩市に昇格。65年に多摩ニュータウンが都市計画決定され、今後開発が進められる多摩地区一帯の状況は急速に変化していった。
買い物に向かうニュータウン住民と見られる主婦たちの傍に、造成工事に携わる作業員の姿が写っているが、買い物かごを持つ女性たちや、おんぶ紐で乳児を背負って幼児の手を引く女性の姿には、昭和の時代の懐かしさを感じる。
その背後にはやはり乳児を抱いた家族連れの姿が見えるが、当時のニュータウンにはこうした若い世帯が数多く入居し、そうした彼らの家族形態は「ニューファミリー」と呼ばれ、新しい時代のライフスタイルを象徴するものでもあった。
一方で、その70年代はじめ、茅葺きの民家の残る多摩地区の農村では、ニュータウン造成の土木工事が行われていた。当時の多摩地区は、米や野菜、養鶏・養豚、炭焼きなどの兼業農家が多かったが、70年代になると、ゴルフ場や団地用地などに山林を売る農家も増えてきていた。