「娘は理不尽に命を奪われた」 父が意見陳述 小5死亡事故

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「娘は理不尽に命を奪われた」 父が意見陳述 小5死亡事故

東京地裁=米田堅持撮影

 14日の公判では両親が意見陳述した。父暁生さん(44)の主な発言内容は以下の通り。

 ◇受験勉強を楽しみに

 私たち夫婦にとって、この世で最も大切に思い、愛していたのが、一人娘の耀子でした。耀子も私たち両親のことをとても愛してくれていたと思います。

 耀子は幼い頃から、のんびり屋でマイペースな子でしたが、「継続は力なり」を地でいく子で、何事にも根気強く取り組む子でした。

 水泳、ピアノ、お囃子(はやし)、英語といろいろな習い事をしました。どれもできるようになるまでには時間がかかりましたが、出来る様になるまで、諦めることを嫌う子でした。

 その、ひたむきな姿と、持ち前のマイペース屋さんからくるほんわかした様子が相まってか、習い事の先生方にもとても可愛がっていただきました。親の欲目かもしれませんが、多くの人から愛されるキャラクターを持った子でした。

 小学3年生から中学受験のための塾に通い始め、夜の8時または9時まで塾で勉強をしていました。当初は慣れるまでに少し時間がかかりましたが、習い事で培ってきた継続する力を発揮して、徐々に学力を付けていきました。

 そのかいあって塾でも最上位のクラスに所属していました。私に似て国語が得意だったので、やっぱり親子なのだなとうれしく思ったことをよく覚えています。小学5年生になってからは受験勉強を楽しみにするまでに成長し、志望校を決めるためにいろいろな学校の見学会にも行きました。

 見学の際は在校生から声をかけられると照れくさそうにしていましたが、後でこっそり、「この学校は気に入った」とか「この学校はイマイチだった」などと感想を教えてくれて、志望校を真剣に考えている姿に大きな成長を感じ、ほほ笑ましく思いました。

 耀子の部屋には、勉強のメモや私たち両親が作った勉強のスケジュール表などが至る所に張ってありました。正にこれから6年生になって、いよいよ受験勉強本番となる矢先に、今回の事件に遭いました。

 ◇ホワイトデーのお返しできず

 事件当日は19時から私の美容室の予約が入っていました。当初は耀子を連れて行く予定はありませんでしたが、ちょうど、妻が外出しており、耀子を一人で留守番にさせておくのも可哀そうに思い、「美容室についてくるか?」と聞くと、彼女は「ついてくる」と言いました。

 私は、耀子と2人で近所のスーパーに出かけたり、ちょっとした散歩がてらの外出をするのが、プチデートのようで楽しみでした。ですから、その日の美容室もそんな気持ちで一緒に出掛けることにしました。

 この時に、一緒に連れて行かずにおけば、耀子は事件に巻き込まれなかったのだと、今は悔やんでも悔やみきれない思いです。

 美容室に着くと耀子は持ってきたゲーム機でゲームをしながら、私を待っていました。私の前の予約のお客さんの立ち話が長引いて、19時からの予約でしたが、私が髪を切り始めたのは19時15分くらいでした。それでも、耀子はおとなしく待ちながら、時々妻とメールで状況報告のやり取りをしているようでした。

 美容室の鏡越しに耀子の様子を見ていましたが、お店の方に話しかけられて世間話をする様子などは、もはや幼児ではなく、しっかりとした少女になっていました。なじみがない大人ともにこやかに話せるようになり、随分と成長したものだなと、思ったのを覚えています。

 美容室は予定より遅くに終わり、20時30分ごろに店を出発しました。どこかで妻も合流して外食でもしようかという話にもなりましたが、耀子と妻は携帯電話のメールで連絡を取り合っており、妻が家で夕食を用意して待っているとのことだったので、家に帰ることにしました。

 その日はホワイトデーだったので、まだお返しを渡していなかった私は、帰りにコンビニで何でも好きなものを買ってあげようかなどと、のんきに考えながら、耀子とたわいもない会話をし、歩いて家に向かいました。雨は降っていなかったと思います。

 あともう少しで家に着く場所にある、事件現場の四つ木5丁目交差点に差し掛かりました。歩行者の信号は赤だったので、青に変わるのを2人で待ちました。

 水戸街道は車が結構な速度を出して走っていました。金町方面から向島方面への上り車線を走る車が、信号待ちをしている私たちからみて右から左へと走り抜けるので、私はあえて、私の体が盾になるように耀子の右側に立って信号が青になるのを待ちました。後でこのことが耀子を左側からの車の衝突から守る上であだになるとは、この時は思いもしませんでした。

 程なくして、信号は青に変わりました。しかし私は耀子に「まだ渡るな」と言いました。向島方面から金町方面への下り車線を暴走族風のバイクが信号を無視してわざとエンジン音をうならせながら低速で横断歩道を横切って行ったのです。私たちはそのバイクが走り去るのを待ち、横断歩道から離れて行ったのを確認して、耀子に「どうしようもないやつらだな、渡ろう」と一言言ってから、青になった横断歩道を渡り始めました。それが、耀子と私との最後の会話になりました。

 耀子は私と並んで、私の左側を歩いていました。横断歩道中ほどの中央分離帯を越えたあたりで、私は我々の右側を走り抜けて、同じく横断歩道を渡る自転車を目視しました。

 そこで、私の記憶はぷつりと飛んでいます。気が付いた時は、救急車に乗せられているらしいことが分かりました。車にひかれた衝撃で気を失ったようで、ひかれた瞬間のことは全く覚えていません。

 訳が分からなかった私は、何か言葉を発しようとしたと思いますが、会話をする力がありませんでした。救急隊員が大声で「車にひかれたんだ」と叫ぶようにして教えてくれました。私は状況がよくのみ込めませんでしたが、何とか力を振り絞って、「娘は?」と救急隊員に尋ねました。

 救急隊員は「別の救急車で運ばれている。それ以上の状況は分からない」と言いました。そして、サイレンを鳴らしながら激しく揺れる救急車の中で、私は酸素マスクをつけられ、自力では全く体を動かすことができず、左足に激痛を感じながら意識が途切れ途切れになっていきました。

 次に覚えているのは、病院らしきところで、強いライトの下でたくさんの医者に囲まれている光景でした。私は「娘は?」と聞きました。医者は、「娘さんの状況は分からない。手術することを了解してほしい」と言いました。

 意識がもうろうとするなか、耀子はきっと別の病院で処置を受けているのだ、多分軽傷だろうと思い、医者に手術を了解する旨を伝えました。この時私は、なぜ車にひかれたのか全く見当もつきませんでした。このまま自分は死ぬのかもしれないと思いました。麻酔をされて、また記憶はそこでぷつりと飛びました。

 ◇「ごめんな耀子」

 次に気が付いた時には、私は集中治療室にいました。恐らく事件当日の2日後だったと思います。体は相変わらずほとんど動かず、意識ももうろうとしていました。左足には手術した形跡がありましたが、足の感覚はありませんでした。

 徐々に意識がはっきりとしてくる中、病院の看護師や医者に耀子のことを聞いても、みな一様に、娘さんは別の病院に運ばれていて状況は分からないと言いました。

 病室には妻と私の両親も来ていました。妻に耀子の様子を聞きましたが、妻は苦しそうに口ごもるだけで何も言いませんでした。私は何か皆が隠していると思い、父に「耀子はどうした」と聞きました。すると、父から「耀ちゃんはダメだったよ」と伝えられました。

 にわかには信じられませんでした。あの耀子が死んでしまった? なんで?

 状況が理解できず混乱した私は、妻を呼びました。妻も当然取り乱していて「一緒に私たちも耀子の後を追おう」と涙ながらに言いました。何をばかなことを言っているんだと思いましたが、憔悴(しょうすい)しきっている妻にかける言葉は見つかりませんでした。

 その瞬間を境に、私の人生は終わったも同然になりました。

 耀子の死を伝えられても、私は依然としてそのことが信じられませんでした。なぜこんなことになってしまったのか? そのことばかりを頭の中でグルグルと考えていました。

 その後、病院の計らいで耀子の遺体を、墨東病院から私が入院している日本医科大学付属病院に移送してもらい、私が耀子と対面する機会を作ってもらいました。

 耀子の遺体が安置されている場所に車いすで行きました。そして、横たわる耀子を見た瞬間私は、「ごめんな耀子」と声をあげてしまいました。あまりのショックに号泣することもできませんでした。耀子の体は信じられないほど冷たく、硬くなっていました。大事な大事な一人娘がこんなことになるなんて、私は冷たい耀子の体をなでながら、二度と元気な耀子に会うことができなくなってしまったことに、底知れぬ絶望を感じました。

 耀子との対面を終え病室に戻ると、医師から今後のことについて説明がありました。できる限りのことはするが、今の容体では通夜と葬儀に参列するのは難しいという説明でした。私は、参列しないことはあり得ないと伝え、何とか葬儀だけは参列することを許してもらいました。

 葬儀の前日、病室で喪主のあいさつを考え、メモにしたためました。

 車椅子で介護タクシーに乗って、葬儀場に着くと、耀子は棺の中にいました。私は改めて耀子の冷たく硬い体に触れ、号泣しました。棺の中で花に埋もれる我が子の姿を見て、一体これは何なのだ、なぜこんな光景を目にしなくてはいけないのかと、悲しみと怒りと絶望が入り交じった気持ちになりました。

 葬儀には300人を超す方々が参列してくださいました。

 ◇地獄のような日々

 葬儀を終えた翌週に、病室に警察の方が来ました。私は、明らかに青信号を横断していたのに、こんなことになるのは全く意味が分からないと話しました。警察の方は、車が赤信号を無視していて、我々に全く落ち度はない、極めて悪質な事件だと言っていました。後々聞いた話では、耀子は車と私の体に挟まれる形になってしまったため、ダメージが大きかったそうです。私はそれを聞いて、なぜ耀子を救うことができなかったのか、私と耀子が左右逆に並んでいれば耀子は助かったかもしれないと思いました。今でもそれが苦しくて仕方がありません。

 令和2(2020)年4月10日に退院しました。自宅に戻り、耀子の部屋で、彼女がもうこの世にいないことを改めて突き付けられ号泣しました。

 それからは、地獄のような日々でした。なぜこんなことに巻き込まれてしまったのか、なぜ耀子は死んでしまったのか、毎日、毎日、考えても考えても、救いは無く、また今日も耀子がいない一日が始まるのかと苦しくなるばかりでした。

 当時、唯一の外出はリハビリでした。松葉づえでの歩行訓練のために自宅近くの整形外科に通いました。病院では、耀子と同じ年ごろの女の子がリハビリに励む姿を目にする機会がありました。耀子も骨折程度で済めばせめてもの救いだったのに、なぜ死んでしまうほどの事件に巻き込まれたのかと、ここでも苦しくてたまらなくなりました。

 リハビリを続け、松葉づえからつえ1本で歩けるようになったので、6月から仕事に復帰しました。復帰後は、事件で暗転してしまった自分の人生と、今まで通り何も変わることなく回っていく職場との落差に大変苦しみました。同僚の変わらぬ日常の話題や、お子さんのイベントの話が耳に入ってくる度に涙があふれ、トイレなどでこっそり泣きました。それでも、顧客の前では何事もなかったかのように笑顔で話さなくてはなりませんでした。

 そんな毎日を過ごす中で、明らかに精神的に異常をきたしていると感じたので、被害者支援都民センターのカウンセリングの際に相談すると、重い抑うつ状態にあると思われるので直ちに精神科へ行くように勧められ、紹介状を書いてもらいました。心療内科での診断は抑うつとPTSD(心的外傷後ストレス障害)でした。私は、睡眠導入剤や抗うつ剤を服用しながら何とか仕事を続けましたが、その年の年末ごろから限界を感じ、令和3(2021)年4月末で会社を退職しました。本当に人生がめちゃくちゃになりました。

 ◇初公判前日に娘のビデオ

 私たち親子は慎重に青信号を横断していただけで何の落ち度もありません。

 娘の耀子は、6年生に進級することを楽しみに、中学受験に向けて正に本腰を入れようとしている真っ最中でした。

 「大学生になったらピアスをしてもいい?」

 「テレビが大好きだから将来はテレビ関係の仕事をしてみたいな」

 「なるべく早く結婚して、子供は4人ぐらい産みたいな」

 そんなことをよく話していました。さまざまな可能性を持った未来がたくさんある娘でした。私たち夫婦にとって、ただ一人の子供であり、両祖父母にとってもただ一人の孫でした。そんな大事な娘が、このように理不尽な形で大切な命を奪われました。

 初公判の前日、妻が検察官との打ち合わせで不在の時に、私一人で過去に撮った耀子のビデオを見ました。

 事件以来、耀子が映ったビデオをきちんと見るのは初めてでした。それまでは、つらすぎて映像を見ることが難しかったのです。しかし、裁判に臨むにあたって、きちんと耀子の動く姿と声を目と耳に焼き付けなくてはいけないと思い、意を決して見ました。動く耀子の姿を目にし、声を耳にして、ただただ、失ったものの大きさに、一人で震えながら大声で泣きました。

 当たり前ですが、耀子は生きたかったと思います。本当に悔しがっていると思います。一番怖かったのは耀子です。青信号を守っていたのに、赤信号無視の大きな車に時速57キロで衝突され、どれほど怖かったか、痛かったか。

 愚かな運転により、命を奪われた娘の無念さ、苦しさ、そして我々遺族の悲しみと絶望をご想像いただき、今後、このような事件を再発させてはならない、という予防的な意味も込めて、過去の判例や量刑相場にとらわれることなく、現行法上の最大限の刑罰、すなわち懲役20年に処していただきますようにお願いいたします。

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