本郷和人 お万の子・秀康はなぜ将軍を継げなかった?「武士の家であれば兄が偉い」はただの思いこみである『どうする家康』


本郷和人 お万の子・秀康はなぜ将軍を継げなかった?「武士の家であれば兄が偉い」はただの思いこみである『どうする家康』

お万との間に産まれた結城秀康。なぜ彼が将軍を継げなかったのか、本郷先生の見解とはーー(福井市。写真提供:PhotoAC)

【絵】征夷大将軍・徳川家康。「源家康」との表記も

一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生が気になるあのシーンをプレイバック、解説するのが本連載。第38回は「兄なのに尊重されない?」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!

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◆儒教では長兄が偉いはずなのに

瀧澤馬琴が描いた江戸時代後期の大ベストセラー、『南総里見八犬伝』。

主人公である八人の犬士たちは、物語のなかで「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の玉を持つのですが、これはご存じの通り、儒教の徳目になります。

この中で最後の二つ「孝悌」は、越前の由利公正とともに五箇条のご誓文を起草した福岡孝悌(土佐藩士)の名前にもなっています。

親に仕えることを意味する「孝」は儒教本来のありようでは最高の徳(「忠と孝二つながら全し」「君に忠、親に孝」は、日本独自の概念)。これに対して「悌」は「弟らしくすること」を意味して、お兄さんを敬う徳です。

父兄会、なんて言葉もありまして、儒教では兄、とくに長兄はお父さんに次いで偉かったとされます。

ただし、孝の価値に多少の変化が見られるように、兄の地位は日本では絶対ではありません。

公家においても武家においても、お母さんの格が高い子が、兄を差し置いて跡取りに指名される、なんて例もしばしば。何といっても、源頼朝は生まれながらの跡取りながら、三男でした。

前話にて侍女・お万の方が妊娠しましたね。ドラマでは「城を出て、この子を殿の子として恥ずかしくないよう、立派に育てる」と言っていた彼女でしたが、史実としてはこの先、男の子を産むことになります。

家康にとっては二番目の男子。長男の信康にはこの先いろいろありますので、結果的に、家康の男子としては最年長となります。

でも家康は、成人して「秀康」を名乗るこの子を跡取りにはしませんでした。ごく自然に、秀康の後に産まれた三男の秀忠を跡継ぎとして育てた。しかも、まったく考慮した形跡すらない。悩んだ様子がないのです。

秀康の人生については前の記事でも触れましたが、彼は秀吉の人質となったのち、やがて関東の名門である結城家を継ぎ、結城秀康と名乗ります。さらに関ヶ原の戦い後に越前68万石余の大大名になると、結城姓を捨て、松平を称するようになりました。

いずれにせよ、将軍を継げなかった。儒教では尊重されるはずの兄ですが、秀康についてはそうではありませんでした。



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