自民党の高市早苗総裁(64)が衆参両院の首相指名選挙で第104代首相に選出されたという速報は、多くの人々に衝撃を与えました。しかし、彼女はいかにして日本の最高権力である首相の座へ上り詰めることができたのでしょうか。その政治家としての道のりは決して平坦なものではなく、若き日には「不義の人」とまで呼ばれるほどの波乱を経験しています。本稿では、高市氏のキャリア初期に焦点を当て、その政治家としての根幹を形成した重要なエピソードと、彼女を支えた陰の立役者たちの存在を深く掘り下げます。
第104代首相に選出された高市早苗氏
1992年参院選:波乱の幕開けと「不義の人」の烙印
高市早苗氏が日本の政界でその名を馳せるに至るまでには、多くの試練がありました。特に1992年の参議院選挙は、彼女の政治家としての道筋を決定づける重要な転換点となります。
松下政経塾を卒業、テレビキャスターを経て政界へ
アメリカでの経験を経て松下政経塾を卒業した高市氏は、その後、テレビ番組のキャスターとして活躍しました。そのキャリアの中で政治家を志す意思を固め、いよいよ国政の舞台への挑戦を決意します。彼女が最初に挑んだのは、1992年の参議院選挙でした。
自民党奈良選挙区での予備選と奥野誠亮氏の裁定
当時の自民党奈良選挙区では、高市氏の他に服部安司参議院議員(当時)の三男である服部三男雄氏も出馬を目指しており、両者一歩も引かない状況でした。この後腐れなく公認候補を決めるため、当時としてはまだ珍しかった予備選挙が実施されることになります。この予備選を裁定したのは、県連会長を務めていた奥野誠亮元法相でした。奥野氏は、「負けた方は参院選には立候補せず、敗者は本選挙で勝者に協力する」という条件を両候補に確約させました。
約束破り、「無所属」での出馬と奥野氏の批判
しかし、結果は服部氏の圧勝に終わります。高市氏は、不在者投票や有権者名簿の扱いなどが「アンフェアだった」と主張し、その結果に納得しませんでした。奥野元法相の秘書を務めていた石崎茂生氏は、「県連事務局は選挙事務の運営に瑕疵がないよう細心の注意を払っていましたが、彼女はクレームをつけたのです」と振り返ります。結局、高市氏は奥野氏との約束を反故にして無所属での立候補を強行。これに対し、奥野氏は本選挙の応援演説で高市氏のことを「不義の人」と厳しく批判しました。この選挙での経験は、高市氏の政治家としての初期キャリアに大きな影を落とすことになります。
「奈良県政のドン」浅川清氏の絶大な支援
高市氏が「不義の人」とまで呼ばれる逆境に立たされた中、彼女を強力に支援したのが、1981年から1993年まで奈良県議会議長を務め、「奈良県政のドン」と称された浅川清氏でした。
浅川氏が傾倒した高市氏への期待
浅川氏の側近だった元奈良県議の出口武男氏は、当時の状況を「あの時、俺は浅川さんを止めたんや。『やめとけ』言うて。高市は最初から国政に行きたかったけど、金がなかったからな。それでも浅川さんは高市に『ええ格好さしたろ』って……」と振り返ります。高市氏が国政に進むために資金面で苦慮していた状況を浅川氏が理解し、熱心に応援していたことが伺えます。出口氏はさらに、「高市があそこまでいったのは浅川さんのおかげってのが半分はあるで。それぐらい浅川さんが入れ込んどった」と語り、浅川氏の支援がいかに絶大であったかを強調しました。浅川氏系の県議会議員らも、高市氏の選挙活動を強力に後押ししました。
密接ながらも慎重だった関係性
浅川氏と高市氏の関係は非常に密接でしたが、同時に浅川氏の側にはある種の慎重さもありました。出口氏によると、「浅川さんは高市と二人でメシには行かん。誰かにヘンなこと言われたらかなわんし、浅川さんは嫁さんが怖かったからな。料理屋に行く時はいつも俺と浅川さんと高市の三人や」というエピソードが残っています。公私にわたる関係での誤解を避けるため、常に第三者を交えていたことがうかがえます。浅川氏の息子の浅川清仁氏も、父の熱心な応援は間違いなかったと認めつつも、「父の時代のことは私には分かりません」と述べており、その関係の深さの一端が垣間見えます。
結論
高市早苗氏が第104代首相の座に上り詰めるまでの道のりは、決して順風満帆なものではありませんでした。1992年の参議院選挙における「不義の人」という批判、そして「奈良県政のドン」浅川清氏という強力な支援者の存在は、彼女の政治家としての初期キャリアを形成する上で不可欠な要素でした。これらの経験は、高市氏の揺るぎない政治信条と、目標達成への強い意志を培う土台となったことでしょう。彼女の道のりには困難と決断が常に伴い、そうした過去が今日の高市首相を形作っていると言えます。





