日本への原爆投下―長崎で止めた理由について疑問を呈する

大東亜戦争の発掘と考察

「広島に続き、長崎に2発目を投下した理由は何か?」と疑問に思ったことはありませんか?

広島にはウラン型の原爆が投下されたと言われ、アメリカのテネシー州オークリッジ研究所で開発されました。一方、長崎にはプルトニウム型の原爆が投下されたとされ、開発はワシントン州のハンフォード研究所で行われました。両方の原爆が投下される必要性があったとされています。

なぜ、長崎で止めたのか?

しかし、本当に問うべきなのは「なぜ、長崎(2発目)で止めたのか?」ということかもしれません。

前述のように、原爆投下の目的は費用対効果の正当化と威力・破壊力の誇示であり、それはハイドパーク覚書にも記載されている通り、投下回数が多ければ多いほど良いとされていました。つまり、計画では繰り返しの原爆投下が予定されていたのです。この計画には、日本人の尊厳は考慮されていませんでした。

アメリカなどにある一次史料から、日本への原爆投下計画の詳細が確認できます。

1945年(昭和20年)8月10日、マンハッタン計画の責任者であるグローブス将軍からチーフ・スタッフへと送られたメモランダム(ジョージ・C・マーシャル図書館収蔵)によると、3発目の投下は8月17日か18日以降の最初の晴れた日に予定されていました。

同じく8月10日、ヘンリー・ウォレス商務長官(元副大統領)の日記(アイオワ大学図書館収蔵)によると、ハリー・トルーマン大統領が日本の降伏が近いと判断し、一連の原爆投下計画を一時停止させる命令を出しました。広島・長崎への投下が非人道的な行為であることに、遅まきながら気付いたのです。しかし、日本のポツダム宣言への受諾報告はまだ届いていませんでした。

8月13日、原爆投下の実務責任者であるジョン・ハル大将(戦後の琉球総督)とライル・シーマン大佐(グローブス将軍の補佐)の電話会議記録(ジョージ・C・マーシャル図書館収蔵)によると:

  1. 2発の原爆の効果は絶大でした。
  2. 8月19日には3発目の投下が可能でした。
  3. 9月には4・5発目の投下が可能でした。
  4. 10月には6~8発目の投下が可能でした。
  5. 10日ごとの投下が確定しており、本土上陸前に一斉に投下されることも検討されていました。

ちなみに、本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)はハル大将が指揮し、主に関東と南九州への侵攻が予定されていました。本土上陸作戦と原爆投下は関連していたわけではありませんが、同時に計画されていました。

8月14日、トルーマン大統領はワシントンに駐在するイギリスの外交官と会談し、東京への3発目の原爆投下命令以外に他の選択肢はないと語りました。

数時間後の午後4時5分、ホワイトハウスは日本の降伏を受け入れたことを発表しました。

なぜ、長崎(2発目)で止めたのか?

それは日本の降伏によるものです。そして、真珠湾攻撃が一連の原爆投下の悪魔的な帰結だったと言えるでしょう。

林千勝は近現代史の研究家であり、ノンフィクション作家です。東京都出身の彼は、東京大学経済学部を卒業し、大手金融機関で働いた後、近現代史の研究に取り組んでいます。彼の著書には『日米開戦 陸軍の勝算』(祥伝社)、『日米戦争を策謀したのは誰だ! ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿 そしてフーバーは』(ワック)、『近衛文麿 野望と挫折』(ワック)、『ザ・ロスチャイルド 大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語』(経営科学出版)などがあります。彼は「これが本当の近現代史」「月刊インサイダーヒストリー」などのネット番組で情報を発信しています。

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