藤原彰子:道長の操り人形ではなく、賢后と称された一条天皇の中宮

「光る君へ」(NHK)で紫式部(吉高由里子)が仕える一条天皇の中宮・彰子(見上愛)。ドラマでは、皇后定子亡き後に一条天皇の寵愛を受け、二人の皇子を産んだ幸福な姿が描かれています。

しかし、実際の彰子はどのような女性だったのでしょうか?平安時代の研究者である服藤早苗氏によると、「彰子は思慮深く賢い女性だった。決して父・道長の操り人形ではなく、次の皇太子を決めるときには、実子よりも皇后定子の皇子を優先しようとした」といいます。

生まれながらの「キサキがね」:一族の期待を背負った少女時代

永延2年(988)、左大臣・源雅信の長女・倫子を母に、道長の長女として生まれた彰子。生まれた時から「キサキがね」(天皇の妃候補)として、一族の期待を一身に背負っていました。

幼い頃の彰子が遊んだお手玉の石は、女房の赤染衛門がわざわざ後宮の庭から拾ってきたという逸話が残っています。

異例のスピード出世:12歳で入内、従三位に

彰子が12歳の時、すでに一条天皇の寵愛を受けていた中宮定子が、兄と弟の助命嘆願のために髪を切り、その3年後に彰子は裳着(もぎ)の儀式を行いました。

裳着とは、貴族社会における社交界デビューともいえる儀式。彰子の裳着は、父・道長が公卿たちを集めて盛大に行われ、彰子はその時点で従三位に叙せられました。

これは異例なことで、この時点で既に入内が決まっていたと考えられています。

母・倫子の愛:身重の体で娘の入内を支える

11月には母の倫子に付き添われて内裏に入り、天皇との初夜を迎えました。

倫子はこの時、36歳にして身重の体でした。生涯で6人の子を産んだ倫子ですが、自身の体調よりも娘の入内を優先する、深い愛情がうかがえます。

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思慮深い彰子の決断:実子よりも定子の皇子を優先

彰子は、頭脳明晰な政治家として知られる藤原実資が「賢后」と称えたほど、思慮深く賢い女性でした。

紫式部の教えや支えもあり、彼女は決して道長の操り人形ではなく、自らの意志で政治的な決断を下していきました。

例えば、次の皇太子を決める際には、実子よりも皇后定子の皇子を優先しようとしました。

まとめ:院政期への橋渡しをした、賢后・彰子

彰子は、道長の娘としてだけでなく、一条天皇の中宮、そして皇太后、女院として、自らの意志で政治に関わっていきました。

彼女の賢明な判断は、後の院政期への橋渡しとなったと言えるでしょう。

大河ドラマ「光る君へ」では、彰子の知られざる一面にも注目です。