「新生明治国家の旗印」初代神武天皇の謎にせまる


 だが、近代(幕末からアジア太平洋戦争)において、神武天皇は政治・社会上きわめて大きな位置を占めてきた。最大の契機は、慶応3(1867)年の「大政復古の大号令」だった。

 そこでは新政府の原点が、「諸事神武創業ノ始ニ原(もと)ツキ」とされた。神武天皇が新生明治国家の旗印となったのだ。

『神武天皇の歴史学』(講談社選書メチエ)はその神武天皇を、実在、非実在論争とは距離を置いて、史料を重視する歴史学の立場から検証を試みた労作である。

「私は天皇陵の研究者なんですよ」

 著者の外池昇さんは口を開いた。

「ですから、編集者から神武天皇のことを書きませんか、と話があった時、まず考えたのはお墓、神武天皇陵のことです。神武天皇には陵以外にも、近代史に絡めていろいろ問題がある。それらも含めて書いてみよう、と」

神武天皇3つのトピック

「3項目のそれぞれの重要度は?」

「やはり神武天皇陵の正確な場所が一番ですね。それが決まらないと、何も始まらない。ところが神武天皇陵については古くから諸説があるんです。まずそれを書きました」

 神武天皇陵は『日本書紀』では畝傍(うねび)山の東北(うしとら)陵、『古事記』では同山の白檮尾上(かしのおのうえ)とする。大和三山のひとつ、畝傍山の東北側で現在の奈良県橿原市大久保町に相当する。

 そこに旧来3つの候補地があった。「塚山」(四条村)と「神武田」(山本村)と「加志(丸山)」(洞村)である。

 九州の日向から大和へと「東征」した神武天皇が橿原で即位し、3つの候補地のうちいずれかの場所で葬られた、という次第だ。

「塚山」は17世紀末の元禄の修陵で江戸幕府が認定した場所であり、「神武田」は同じ元禄期に松下見林が推挙し、朝廷が関心を示した土地。残る「加志(丸山)」は本居宣長、蒲生君平ら学者たちが唱えた地区だった。

「幕府がいったん“塚山”を神武天皇陵と認めたのに、なぜ“神武田”説や“加志”説が消えなかったんですか?」

「認定しただけで、勅使も派遣されず継続的な祭祀もなかった。つまり、朝廷と結びつかない、祭祀なき天皇陵だったんです」

 その頃の幕府にそこまでの熱量はなかったと考えるほかない。

 複数の候補地問題が再浮上したのは嘉永6(1853)年のペリー来航の時だ。

 時の第121代孝明天皇は、「攘夷」の成功を願って、初代神武天皇陵での祭祀を望んだのである。

 意を受け調査した奈良奉行所与力は、小丘のある平地ながら「ミサンサイ(=ミササギ=御陵?)の地名があり、開墾しようとすると天罰が下るという霊威の地「神武田」が、「塚山」より相応しいと結論を下した。

 一方、修陵の思いを徳川斉昭(水戸藩主)から引き継いだ宇都宮藩主は歴代天皇の修陵を建白し、分家の戸田忠至を山陵奉行に任命し担当させた(この一連の事業が「文久の修陵」と呼ばれた)。

 こちらも「ミサンサイ」という地名や、平安時代の『廷喜式』に記された神武天皇陵の広さと「神武田」のそれが一致することなどから、巷で根強い「丸山(加志)」説ではなく、「神武田」が真陵だとした。

 かくして文久3(1863)2月、孝明天皇は「御達」で「神武田」を神武天皇陵と定めた。ただ、「“丸山”の方も粗末にならないように」とする但し書きも一緒だった。玉砂利、鳥居、拝所を設けた神武天皇陵が完成したのは、同年11月のことである。

「どうして孝明天皇は、付け足しで“丸山(加志)”のことを述べたのでしょうか?」

「さぁ、私もわからない(笑)。ただ言えるのは、明治に入っても“加志(丸山)”説の賛同者は絶えなかったんです。本居宣長や蒲生君平らの影響力はそれほど強かったわけです」

 畝傍山の東北の麓に段々の丘になった「カシフ」という場所があり、そこに小祠があり「天王(天皇?)」「ゴレウ(御陵?)」と呼ばれていた。本居宣長や蒲生君平はそこを神武天皇陵とみなしていたのだ。

 ともあれ、明治5(1872)年になると「徴兵告諭」「軍人勅諭」により、神武天皇は日本の軍隊の創始者に祭り上げられた。



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