「135年間ありがとう」 途方もない歴史を持つ交通機関なぜ廃止? 「できることはやってきた」それは“瀬戸内の風景”の異変


135年も続けてきた渡船の廃止

【これが尾道の日常!】橋があってもみんな「渡し船」な風景(写真)

 多くの「渡し船」ファンから愛されてきた同社ですが、旺盛なインバウンド需要も見られるなかで、今なぜ廃業を決意したのでしょうか。「渡し船」の今後の見通しや行政の考え方など、気がかりなことを取材しました。

「尾道」と聞いて、細長い海を挟んで広がる街並みを思い浮かべる人は多いでしょう。JR尾道駅の南に広がる幅200-500mほどの海峡は「尾道水道」と呼ばれ、実際に目の前に立つと「運河では?」と疑うほどの穏やかさです。

 広島県東南部に位置する尾道市は、瀬戸内沿岸部の中心市街地を含む本土側と、尾道駅の対岸の向島、因島、生口島などの島しょ部からなります。市全体の人口12.6万人のうちの6割強が本土側に集まる一方、島しょ部にも3割強の市民が暮らしています。

 島々では、古くから盛んな造船関連産業や漁業に加え、全国に知られる柑橘類など、さまざまな農産物も生産されます。一方、本土側では、古くから尾道港を中心に市街地が発展し、明治期になると鉄道駅も設置されて人の往来と商業がますます盛んになりました。

 経済活動の興隆とともに、「尾道水道」では地域内外の各地を結ぶ様々な船舶が往き交うようになり、市井の人々の交通手段となる極短距離・多頻度運航の「渡し船」も江戸時代から次第に発達していきました。東西約6kmの沿岸部にはかつて12もの航路が存在したといいますが、3航路に減少した現在でも、「渡し船」は老若男女の交通手段として生活に欠かせない存在であり続けています。

手漕ぎ船の時代から続けてきた渡し船

 電話取材に応じてくださった同社の福本雅子社長によると、創業当時の「渡し船」の姿は、木造船の艫で櫓を漕いで運航する「手漕船」で、そこから時代を追って「焼玉」、「ディーゼル」と動力機関が発展していったそうです。「焼玉」とは今や懐かしい「ぽんぽん船」のエンジンです。

「福本渡船」では、戦後に自動車運搬の営業免許を取得し、現在まで続く輸送形態を確立しました。昭和30年代の資料には、「第二」「第三」「第八」の3隻の「小浦丸」を投入し、旅客に加え、大型トラックや当時多かった三輪車も積載し、朝5時から23時まで1日合計140往復を運航した記録が見られます。

 また、「福本渡船」といえば、尾道渡船業界で最安の料金体系で知られています。同じ昭和30年代の資料には「公営渡船の料金の約3割引」との注記が見られます。同社が運航する航路は向島と本土側の駅近くを結ぶ利便性の高いものですが、同時に「駅前渡船」(尾道駅前-富浜)との交差航路でもあります。

「福本渡船」は現在も約10分間隔での運航です。多頻度で割安な渡船サービスを提供するため、運航面の困難さを克服しながら航路を守り続けてきたものだといいます。



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