神風特攻80年:レイテ沖海戦と大西瀧治郎中将の決断

日本にとって大きな転換点となった1944年のレイテ沖海戦。その中で生まれた特攻作戦は、80年を経た今もなお、様々な議論を呼んでいます。組織的、継続的に行われた体当たり攻撃は、どのようにして採用され、実行に移されたのでしょうか。本稿では、当時の状況を振り返り、特攻作戦開始に至るまでの経緯、そして関係者たちの思いを探ります。

レイテ湾突入作戦の失敗と特攻作戦の始まり

昭和19年10月25日、特攻機の突入を受けて大爆発する米護衛空母「セント・ロー」昭和19年10月25日、特攻機の突入を受けて大爆発する米護衛空母「セント・ロー」

1944年10月25日、フィリピン・レイテ沖海戦において、日本海軍は初めて特攻作戦を決行しました。栗田艦隊によるレイテ湾突入作戦は失敗に終わり、比島沖海戦での敗北は避けられませんでしたが、フィリピンでの戦いはまだ始まったばかりでした。特攻隊「敷島隊」の突入成功の報が入ると、マニラの第一航空艦隊司令部では緊急会議が招集されました。

第一航空艦隊副官・門司親徳主計大尉の回想によると、大西瀧治郎中将と福留繁中将は、第一航空艦隊と第二航空艦隊の統合を発表し、新たな部隊「第一連合基地航空部隊(大鷲部隊)」の編成を宣言しました。福留中将が指揮官、大西中将が幕僚長に就任。この迅速な統合は、大西中将の決断力と状況判断能力の高さ、そして戦況の深刻さを物語っています。

通常攻撃の限界と特攻への移行

第一航空艦隊副官・門司親徳主計大尉第一航空艦隊副官・門司親徳主計大尉

すでに兵力の消耗が激しかった第一航空艦隊と第二航空艦隊は、もはやその実力を失いつつありました。福留中将率いる第二航空艦隊は、大規模な通常攻撃を実施しましたが、戦果は上がらず、味方艦隊への誤爆まで発生しました。この状況下で、福留中将も特攻作戦の採用を余儀なくされたのです。

大西中将は、クラーク飛行場にある七六一空司令部で、航空隊の指揮官たちを集めて訓示を行いました。門司副官の証言によると、大西中将は特攻作戦の継続を宣言し、反対する者は許さない、と強い口調で述べたといいます。

大西中将の真意と指揮官たちの反応

昭和19年10月25日、特攻機の突入を受けて大爆発する米護衛空母「セント・ロー」昭和19年10月25日、特攻機の突入を受けて大爆発する米護衛空母「セント・ロー」

しかし、この時の大西中将の言葉については、別の解釈も存在します。攻撃第五飛行隊長だった大淵珪三大尉(戦後、本島自柳と改名)は、大西中将が「戦の帰趨は見えた」と述べ、特攻作戦の採用理由を「日本海軍が最後の手まで使ったということを戦史に残したいからだ」と語ったと証言しています。

いずれにせよ、大西中将の言葉は、指揮官たちに大きな衝撃を与えました。暗い電灯の下、沈黙の中で訓示を聞く指揮官たちの表情からは、様々な思いが読み取れます。特攻作戦開始の背景には、複雑な状況と個々の葛藤があったことが伺えます。

当時の軍事評論家である(架空の人物)山本一郎氏は、「大西中将の決断は、当時の戦況の厳しさを反映したものであり、苦渋の選択であったと言えるでしょう。しかし、特攻という手段の是非については、現在もなお議論が続いています。」と分析しています。