フィリピン戦線で繰り広げられた、太平洋戦争末期の悲劇「特攻」。2024年は、その組織的な体当たり攻撃が始まってから80年という節目の年を迎えます。現代社会に生きる私たちにとって、想像を絶する過酷な状況の中で、若者たちはどのような思いを抱え、特攻へと向かっていったのでしょうか。本記事では、当事者たちの証言をもとに、日本海軍におけるフィリピン戦線での特攻の実態を紐解き、その背景にあるものを読み解いていきます。
特攻命令、突然の言い渡し
1944年10月末、第二二一海軍航空隊の小貫貞雄飛長は、福留繁中将の特攻志願の呼びかけに、周囲の雰囲気に流されるままに応じました。それから約1ヶ月半後の12月15日、小貫飛長に第二〇一海軍航空隊への転勤が命じられます。これは、特攻部隊への異動を意味していました。
alt:特攻隊員への訓示の様子。隊員たちは神妙な面持ちで訓示に耳を傾けている。
クラーク飛行場にいた小貫飛長は、夜10時頃、突然の転勤命令を受けます。そして、ライトを消した車でマバラカットの二〇一空本部へと連行されました。そこで彼を待ち受けていたのは、歓迎の言葉と共に出された一皿のぼた餅でした。
しかし、ぼた餅を口にした矢先、小貫飛長は「明朝黎明発進」という衝撃的な言葉を突きつけられます。あまりにも突然の出来事に、彼は言葉を失い、ぼた餅を喉に詰まらせそうになったといいます。
18歳、遺書を書くことの意味
まだ18歳という若さの小貫飛長にとって、明日死ぬかもしれないという現実を受け止め、遺書を書くことは容易ではありませんでした。死を目前にした心境を言葉にすることなど、到底できるはずもありませんでした。
同期の山脇飛長と共に、特攻時の状況を想像しながら夜を明かす二人。標的の軍艦の種類や、突入時の痛みについて語り合うことで、不安な気持ちを紛らわそうとしていたのかもしれません。
alt:被弾しながらも敵艦に突撃する零戦。黒煙を上げながらも、任務遂行のため突き進む姿は、特攻の悲劇を象徴している。
当時の日本海軍では、多くの若者が小貫飛長と同じように、突然の特攻命令に翻弄され、死へと追いやられていきました。彼らの心情を想像することは、現代に生きる私たちの責務と言えるでしょう。
特攻の真実を後世に伝えるために
特攻という悲劇から80年。風化しつつある戦争の記憶を後世に伝えるために、私たちは当事者たちの証言に耳を傾け、歴史の真実を学び続ける必要があります。特攻隊員たちの苦悩と葛藤、そして彼らが命を懸けて守ろうとしたものとは何だったのか。本シリーズを通して、改めて考えていきたいと思います。