藤原道長。栄華を極めた平安貴族の代名詞と言えるでしょう。権力の頂点に立ち、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ歌はあまりにも有名です。しかし、その輝かしい人生の晩年は、愛娘たちの死という深い悲しみで彩られていました。今回は、道長が経験した家族の死、そして彼自身の壮絶な最期について、歴史書『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』(朝日新聞出版)を参考に紐解いていきます。
愛娘・寛子の死と嬉子の難産
万寿2年(1025年)7月9日、道長の明子腹の長女・寛子がこの世を去りました。道長は看病していたものの、最期を看取ることなく土御門殿に戻っています。 しかし、寛子の死の悲しみが癒えぬうちに、倫子腹の末娘・嬉子が出産を控えて里帰りしていました。嬉子は当時17歳。春宮・敦良親王の妃として、初めての子を身籠っていました。
道長の娘たちの系図
当時、麻疹が流行しており、「赤裳瘡(あかもがさ)」と呼ばれ恐れられていました。嬉子もこの赤裳瘡に感染してしまいます。初めての出産を前に、病に苦しむ嬉子。周囲の人々は、藤原顕光と延子の怨霊の仕業ではないかと噂しました。
赤裳瘡と難産という二重の苦しみ
嬉子は赤裳瘡と陣痛という二重の苦しみに耐えながら、8月3日に男児を出産します。のちの後冷泉天皇となるこの子の誕生に、道長は安堵したことでしょう。しかし、出産後も嬉子の容態は回復せず、産湯の儀式を見届けた後、力尽きてしまいました。
道長の最期とその後
愛娘たちを次々と失った道長。彼自身も、万寿3年(1027年)に病に倒れ、翌年10月に72歳でその生涯を閉じます。権勢を誇った道長の人生は、晩年に大きな悲しみを経験しながら幕を閉じました。
道長の死後、彼の築き上げた摂関政治は全盛期を迎えます。しかし、皮肉にも、彼の血筋は後冷泉天皇の代で途絶えてしまいます。栄華を極めた藤原氏の栄光は、やがて歴史の波に飲み込まれていくのでした。
平安時代の貴族社会を彩った藤原道長。彼の物語は、権力の栄光と無常、そして家族への深い愛情を私たちに伝えています。