塚本此清さん、99歳。鍼灸師として長年人々の健康を支えてきた彼の胸には、今も消えることのない戦争の記憶が刻まれています。太平洋戦争末期、学徒兵として戦場に赴いた塚本さんの体験は、軍国主義の狂気と、理不尽な暴力に満ちたものでした。
軍人である父からの暴力とトラウマ
塚本さんの父、保次さんは陸軍大佐でした。厳格な軍人であった父は、塚本さんに容赦ない体罰を加えていました。「殴る蹴るは日常茶飯事、水をかぶせられたり縄で縛られたりもした」と塚本さんは語ります。当時の上官の「負けると思わなければ、負けない」という言葉は、まさに狂気の沙汰。このような精神主義が蔓延する軍隊の中で、塚本さんは上官からの暴力に耐え続け、心に深い傷を負いました。現在でも中年の男性を見ると、当時の恐怖が蘇るといいます。
alt塚本さんの父、保次さん。陸軍大佐として厳格な教育を施した。(塚本さん提供)
幼少期、父の転勤に伴い和歌山県に移住。父は連隊区司令部で勤務していましたが、軍縮の影響で小学校の軍事教練教官に転任。この変化が父の不満を増幅させ、塚本さんへの暴力につながったと塚本さんは振り返ります。朝は飯炊き、夜は布団の用意、さらに勉学でも常にトップを求められるなど、過酷な日々を送っていました。
学徒動員と過酷な労働
15歳で太平洋戦争開戦を知った塚本さん。当時はまだ事態の深刻さを理解していませんでした。しかし、中央大学予科に進学後、戦況は悪化。勤労動員で鋳造所の寮に入り、潜水艦の部品製造に従事させられました。高温の工場内での重労働は過酷を極め、多くの人が倒れていく中で、塚本さんは1年間耐え抜きました。
alt入隊当時の塚本さん。若くして戦争の過酷さを経験した。(本人提供)
船舶特別甲種幹部候補生への志願と軍隊内部の暴力
1943年、明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会に参加。雨の中、東条英機の演説を聞きながら、もはや誰も勝利を信じていないと感じていたといいます。
翌年、徴兵検査に甲種合格した塚本さんは、伍長になれるという理由で船舶特別甲種幹部候補生に志願。昇級への渇望は、上官からの暴力を跳ね返す力への欲求でもありました。「戦争で死ぬのは怖くなかった。それよりも、早く昇級して上官を殴り返したかった」と、塚本さんは当時の心境を語ります。
altインタビューに応じる塚本此清さん。99歳になった今も、戦争体験を語り継いでいる。
戦争体験の語り部として
塚本さんは、自らの戦争体験を語り継ぐことで、平和の尊さを訴え続けています。戦争の悲惨さを後世に伝える塚本さんの活動は、私たちに多くのことを考えさせてくれます。
戦争体験記は、過去の出来事を知るだけでなく、未来への教訓を得るための貴重な資料です。塚本さんの体験を通して、戦争の愚かさ、平和の大切さを改めて認識し、未来への平和構築に貢献していく必要があるでしょう。 jp24h.comでは、今後も様々な社会問題を取り上げ、読者の皆様に情報を提供していきます。ぜひコメント欄で感想や意見をお聞かせください。また、SNSでシェアして、より多くの人々にこの問題を知ってもらうことにもご協力をお願いします。