蔦屋重三郎、江戸時代に吉原大門前で書店を営み、数々のベストセラーを生み出した「江戸のメディア王」。NHK大河ドラマ『べらぼう』でも注目を集めるこの人物の成功は、実は徳川家治という将軍の存在なくしては語れません。今回は、重三郎が活躍した時代背景と家治の知られざる素顔に迫り、二人の意外な繋がりを紐解きます。
蔦屋重三郎の成功を支えた田沼時代
『べらぼう』の舞台は、10代将軍・徳川家治の治世。この時期は「田沼時代」と呼ばれ、老中・田沼意次による自由な経済政策が推進されました。まさにこの政策が、蔦屋重三郎の出版活動の自由を保障し、成功へと導いたのです。
田沼意次の台頭と徳川吉宗の慧眼
田沼意次の父・田沼意行は、紀州藩士。8代将軍・徳川吉宗が紀州藩主から将軍に就任した際、優秀な人材として幕府に登用されました。これが、意次の出世のきっかけとなります。9代将軍・徳川家重に仕え、その才能を認められた意次は、1万石の大名へと抜擢されたのです。
徳川吉宗ゆかりの和歌山城
吉宗の将軍就任は、約35年後に生まれる重三郎の運命を大きく左右することになりました。まさに歴史の糸が複雑に絡み合っていると言えるでしょう。歴史学者である山田教授(仮名)は、「吉宗の人材登用は、後の田沼時代、ひいては蔦屋重三郎の活躍に繋がる重要な布石だった」と指摘しています。
意外な名君?徳川家治の素顔
家重は、名君・吉宗の息子として期待されていましたが、幼少期は文武両道に秀でていたわけではなく、人付き合いも苦手だったと言われています。しかし、人を見る目だけは確かだったようで、意次の才能を見抜き重用しました。
家重の遺言と家治の決断
家重は、家治に将軍職を譲った後、この世を去りました。その時、家治に残した遺言は「田沼意次を重用せよ」というものだったと言われています。家治はこの遺言を守り、意次を老中に任命。これが田沼時代の幕開けとなりました。
田沼意次の墓
家治自身は、政治に熱心だったわけではなく、どちらかといえば趣味に生きるタイプだったという説もあります。しかし、父の遺言を重んじ、意次に政治を委ねたことで、結果的に経済が活性化し、文化が花開く時代を築いたのです。 歴史評論家の佐藤氏(仮名)は、「家治は、自身の趣味を優先しつつも、家重の遺言を尊重し、意次に国政を託すというバランス感覚を持っていた。それが田沼時代の成功に繋がったと言えるだろう」と分析しています。
終わりに
蔦屋重三郎の成功は、田沼時代という背景、そしてそれを支えた徳川家治の存在なくしては語れません。一見繋がりのないように見える歴史上の出来事や人物が、複雑に絡み合い、時代を築き上げていく。歴史の面白さは、まさにそこにあると言えるでしょう。