なぜ多くの日本兵の遺骨が見つからないのか「決定的な理由」


民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が13刷ベストセラーとなっている。

【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

紆余曲折を経て体験記発信

このときの僕の担当は「遊軍」だった。遊軍とは新聞業界で一般に、どの記者クラブにも所属しない記者を指す。大きな社会的出来事や災害、事件が起きた際、真っ先に対応することを求められるのが遊軍記者だ。

さらに僕には皇室報道担当という兼務もあった。10月9日の職場復帰早々、目が回るような忙しさに追われた。台風19号が本州を直撃して各地で深刻な被害をもたらした。国際オリンピック委員会(IOC)が東京五輪マラソン・競歩の札幌開催の検討に入ったと発表した。神奈川県内の災害現場と大会組織委が入る都心の高層ビルを往復する日々が続いた。

その中で、歴史的な舞台にも行った。第126代天皇陛下の即位を国内外に宣言する「即位礼正殿の儀」(10月22日)の取材だ。先輩記者はこう言った。同じ月に硫黄島の地下壕と皇居宮殿に入った記者は新聞史上、僕が初ではないかと。宮内記者会に所属する14社の記者と共に、僕は宮殿の「松の間」の近くまで行き、まるで平安絵巻のような儀式をつぶさに記録した。

業務過多でくたくたになる日々が続き、僕の心は揺らぎ始めた。できることなら硫黄島での体験を記事化したいと当初は考えていた。しかし、必ずしもそうする必要はないのではないかと思い始めていた。そもそも僕はボランティアとして硫黄島に渡ったのだ。取材目的ではない。記事にして発信することで、トラブルになるのではないか。そんな危惧を抱いていたのも事実だ。

揺らいだ気持ちが変わったのは、政治担当の後輩記者の言葉がきっかけだった。たびたび国会議事堂の食堂で昼食を共にする仲間だった彼にこう言われた。「酒井さんが硫黄島で見たものは公文書同然ですよ」。

記事にしないなんて何、眠たいことを言っているんですか、先輩、目を覚ましてください。僕に失望したような言い方だった。

ちょうどこのころは、安倍晋三首相(当時)主催の「桜を見る会」を巡る政府の公文書管理の不透明さが問題になっていた時期だった。「国に遮断されて誰もがアクセスできない“公文書”に酒井さんは執念で辿り着いたわけです。広く国民と共有すべき情報です。そう思いませんか」。

その通りだと思った。僕は行動に移した。厚労省の社会・援護局を訪ね、遺骨収集の体験記を記事として発信することを担当職員に伝えた。困った顔をされるか、と思っていたが、それは杞憂だった。

掲載時期がいつになるのかを確認されただけだった。いちローカル紙に掲載されたとしても社会的な影響はない、という判断があったのかもしれない。これが全国的な影響力のある全国紙やテレビ局の記者だったら、違ったのかもしれない。

体験記は「残された戦後 記者が見た硫黄島」とのタイトルで、番外編を含め計4回連載された。12月8日の「開戦の日」に合わせた。

現役新聞記者による硫黄島の遺骨収集現場ルポは、毎日新聞の栗原俊雄記者が2012年に発信して以来7年ぶり。収集団員に対する規制が強化されてからは、僕が初だった。遺骨収集が進まないのは、国民に知られていないからだ。それが栗原記者と僕の共有認識だった。とにかく知ってほしい。そんな一心で発信した。

意外な反響があった。

全国の新聞社、通信社、放送局が加盟する日本新聞協会からだ。毎月2回発行される「新聞協会報」の担当者から、硫黄島上陸に至るまでの経過を詳しく聞きたい、との連絡があった。

僕は人生で初めて「他紙」の取材を受けた。僕の話を担当者はよくまとめてくれた。翌月の2020年1月14日に発行された新聞協会報に、僕の硫黄島報道を紹介する記事が載った。見出しは「遺骨収集の現場 執念で報道」だった。

紙面は札幌の実家の母に送った。「お父さんとおじいちゃんにも読んでもらおうと仏壇に供えたのよ」と後に母から知らされた。

つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。

酒井 聡平(北海道新聞記者)



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