昭和天皇の晩年:隠された闘病生活と「慢性すい炎」発表の真相

昭和天皇の崩御から35年以上が経ちますが、その晩年の闘病生活には今も多くの謎が残されています。本記事では、昭和天皇が「慢性すい炎」と診断された経緯、そしてその背後に隠された真実について、当時の皇室担当記者であった斉藤勝久氏の証言を元に深く掘り下げていきます。 国民に敬愛された天皇の最晩年の様子を知ることで、改めてそのお人柄や激動の時代背景を感じることができるでしょう。

闘病の始まり:誕生日祝宴での異変

昭和62年4月29日、86歳の誕生日を迎えられた昭和天皇。皇居で行われた祝宴の最中、突然の嘔吐に見舞われました。皇太子妃(現上皇后)と常陸宮妃華子さまに支えられながら退席された天皇陛下。この出来事は、後に続く長い闘病生活の始まりを予感させるものでした。

昭和天皇の誕生日祝宴での様子昭和天皇の誕生日祝宴での様子

侍医による診察の結果は「かぜ気味でお疲れによる吐き気」。大事には至らず、翌日には普段通りの生活に戻られたといいます。しかし、この「嘔吐」は、後に続くご病状を考える上で重要なキーワードとなるのです。

消化器専門医、高木氏の抜擢

誕生日の騒動の最中、重要な人事が水面下で動いていました。消化器専門医である高木顕氏が侍医長に就任することが内定したのです。高木氏はかつて侍医を務めた経験があり、この人事は天皇陛下の健康状態に対する懸念を反映していたのかもしれません。 28年前に侍医を務めていた高木氏が、再び陛下に仕えることになった背景には、どのような事情があったのでしょうか。

地方訪問と島民への想い

誕生日の異変後も、昭和天皇は公務を続けられました。5月の佐賀県での植樹祭、6月の伊豆大島への被災地訪問。当時、記者として同行取材をしていた斉藤氏は、天皇陛下の足取りのしっかりとした様子を見て、秋の沖縄訪問にも耐えられる体力があると判断したといいます。 しかし、その一方で、水面下では着実に病魔が進行していたのです。伊豆大島への訪問では、全島避難の苦労を少しでも共にしたいという陛下の想いから、帰路は海上ルートが選ばれました。 国民を想う天皇陛下のお人柄が伺えるエピソードです。

すい臓がんの発見と「慢性すい炎」発表の謎

9月、繰り返す嘔吐に精密検査が行われた結果、すい臓がんが発見されます。「玉体にメス」という前例のない事態に、宮内庁は対応に苦慮しました。 そして国民に公表された病名は「慢性すい炎」。 なぜ真実が隠蔽されたのか、その背景には様々な憶測が飛び交いました。 宮内庁の公式発表と実際の病状の食い違いは、国民に大きな衝撃を与えました。

崩御への道程

「慢性すい炎」と発表された後も、昭和天皇の容態は悪化の一途をたどり、翌年1月に崩御されました。 国民は深い悲しみに包まれ、昭和の時代は幕を閉じました。

結論:昭和天皇の晩年と現代への示唆

昭和天皇の晩年は、病魔との闘いでもありました。国民への深い愛情と責任感から、最後まで公務を続けられた天皇陛下。その姿は、私たちに多くのことを教えてくれます。 本記事を通して、昭和天皇の晩年の様子、そして「慢性すい炎」発表の真相について少しでも理解を深めていただければ幸いです。 歴史を振り返ることで、現代社会における皇室の役割についても改めて考えるきっかけとなるでしょう。 当時の状況を知る関係者へのインタビューや資料の分析など、更なる調査を進めることで、より詳細な情報が明らかになる可能性があります。