プーチン批判を続けた元ロシア政府職員のアレクサンドル・リトビネンコ氏は、亡命先のイギリス・ロンドンで毒殺された。妻・マリーナさんは、夫を亡くした直後に在英ロシア大使から呼び出された。一体どんなやり取りがあったのか。毎日新聞論説委員の小倉孝保さんの著書『プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録』(集英社新書)より、一部を紹介しよう――。
■毒殺の実行犯は笑みを浮かべて会見した
ロンドン警視庁は容疑を殺人未遂から殺人に切り替えた。
ロシア検察幹部は容疑者が国内にいる場合、身柄の引き渡しは難しいと牽制し、「憲法が国民の引き渡しを禁じている」と理由を説明した。
年が明けると、英国政府は容疑者引き渡し要求の準備に入る。有力紙ガーディアンは2007年1月26日、こう報じた。
〈政府はリトビネンコ氏のポロニウム210による毒殺事件で、ロシア人実業家の引き渡しを要求する準備を進めている。アンドレイ・ルゴボイ氏を訴追するための証拠はあると警視庁は主張している〉
検察はルゴボイを先に訴追し、ドミトリー・コフトゥンを後にする方針だった。
ロシア検察幹部が言う通り、この国の憲法は政府が国民を強制的に国外に出すのを禁じている。権力者が恣意的に追放しないよう、政府をしばるための条項だ。
ルゴボイはモスクワで記者会見を開き、潔白を主張した。
「妻や子どもを危険にさらしてまで、危険な物質を扱うだろうか。バカげている。誰かが私を陥れようとしている。わけがわからない」
身柄が引き渡される可能性はないと確信していたのだろう。笑みを浮かべる余裕を見せ、バーでのやりとりについて説明した。
「彼(リトビネンコ)は何も注文しなかった。私たちも彼に何も与えていない。それは100%断言できる」
■毒殺の実行犯、ルゴボイとコフトゥンとは
ルゴボイは1966年、アゼルバイジャン・バクーで生まれたロシア人である。リトビネンコの4歳下だ。モスクワ高等軍事指揮学校を経て1980年代後半、KGBに入り、第9局で政府要人の警護を担当した。
ソ連崩壊後に民間警備業を起こし、ロシアのテレビ局で警備を請け負った。リトビネンコとはKGBで知り合ったが、関係が深かったわけではない。2人は2004年ごろから定期的に交流し、暗殺の数カ月前から頻繁に接触するようになった。
一方、コフトゥンは1965年にモスクワの軍人の家庭に生まれた。高等軍事指揮学校でルゴボイと再会し、卒業後も同じKGB第9局に勤務した。
ソ連が崩壊した際には、最初の妻と一緒にドイツ・ハンブルクに移り、政治亡命を申請している。その後、ロシアに戻り、ルゴボイにスカウトされ、事業を手伝うようになった。
■実行犯の2人もポロニウムで被爆した
2人はロンドンからモスクワに戻り、病院で被曝障害の治療を受けた。飛行機の座席からは濃度の高い被曝痕が見つかっている。放射性物質による暗殺は確実性を担保できる反面、被曝の痕跡を残す。犯人が「足跡」をつけながら動き回っているのと同じである。
マリーナは当時、容疑者についてどう考えていたのだろう。
「2人がやったと信じていました。ほかの人には動機が見つかりません」
2人はなぜ、自分たちも被曝するような危険物質を使ったのだろう。
「毒物であるとは聞かされていたが、放射性物質だとは知らなかったのかもしれません。その性質を理解していたとは思えない。だから無造作に扱ったのでしょう。警察は容易に痕跡を見つけています。どんな物質かを知っていたら、もっと慎重になったはずです」
その場合、実行犯の追跡はより難しくなっていただろう。2人はだまされて暗殺に加担したのだろうか。
「そうだとしたら愚かです。だから、誰に指示されたのか、真実を打ち明けるべきです。ロンドンでなら真実を語れます。2人は双方(英国とロシア)から圧力をかけられ、身動きが取れなくなっています」