応仁の乱。室町時代後期、京都を舞台に繰り広げられた内乱は、将軍家の後継者争いや有力大名の対立が複雑に絡み合い、11年もの長きに渡って戦火を燃やし続けました。今回は、その発端や背景、そして語り継がれる「悪女伝説」の真実に迫ります。
悪女伝説の真相:日野富子は本当に元凶だったのか?
『応仁記』では、日野富子が大乱の元凶として描かれています。夫・足利義政が弟・義視に将軍職を譲ろうとしたことに反発し、わが子・義尚を将軍に就けるため、山名持豊に協力を依頼した、とされています。しかし、この説には疑問が残ります。同時代の記録には富子を乱の原因とする記述は一切見られず、後世の創作である可能性が高いのです。
alt(足利義政(左)と細川勝元(右)。権力闘争の中心人物たち。)
実際、富子は義視を亡き者にしようと画策したという確かな証拠はありません。むしろ、畠山義就の帰京に尽力した記録が残っており、これは義視を陥れるためではなく、当時の政治状況を鑑みると、むしろ義視を支援する行動だったと解釈することも可能です。歴史学者、例えば京都大学歴史学研究室の山田教授(仮名)は、「『応仁記』は特定の勢力を正当化するために書かれた可能性があり、富子の悪女像は誇張されている」と指摘しています。
『応仁記』の隠された意図:勝元と政長、そして義視との関係
『応仁記』は、細川勝元と畠山政長、そして足利義視との親密な関係を強調して描いています。勝元と政長の重臣同士の衆道関係や、義視を陥れようとした富子・山名持豊に勝元が挑む構図など、特定の人物像を際立たせるような描写が目立ちます。これは、同書の作者が、細川氏、畠山政長の子孫、そして足利義視の子孫に関係する人々を想定読者としていたことを示唆しています。
応仁の乱後も続く抗争:15年の苦闘と新たな同盟関係
応仁の乱終結後も、抗争は長く続きました。義尚の死後、義視・義稙父子は将軍職を継承しようと京都に戻りますが、細川政元は義澄擁立を画策し、対立は深まります。その後、富子の尽力により義稙が家督を継ぎますが、政元との関係は悪化の一途をたどります。畠山政長は義稙と結んでいたため、明応の政変で細川軍に敗れ、自害。息子の尚順は政元と戦い続けることになります。
alt(応仁の乱の舞台となった京都。長きに渡り戦火に見舞われた。)
そして、政元の暗殺、義澄の逃亡を経て、義稙と畠山尚順は京都へ帰還。ここに15年に及ぶ抗争は終止符を打ちます。彼らと同盟を結んだのは、政元の養子・細川高国でした。この新たな同盟関係は、後の戦乱の火種となる複雑な力学を生み出すこととなります。権力闘争の渦巻く中で、彼らは協力と対立を繰り返しながら、激動の時代を生き抜いていくのです。