TOKIO、国分太一氏のコンプライアンス違反問題から解散へ 31年の歴史に幕

日本テレビが人気番組『ザ!鉄腕!DASH!!』からの国分太一氏(50才)の降板を公表したのは、複数のコンプライアンス上の問題が確認されたためとして、2024年6月20日のことでした。同日、国分氏の所属事務所である「株式会社TOKIO」は、氏のすべての活動を無期限で休止することを明らかにしました。そして、そのわずか5日後の6月25日には、TOKIOの解散が発表されました。これは、旧ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)の黄金時代を支えた国民的アイドルグループの、31年間に及ぶ活動に終止符が打たれた瞬間でした。長きにわたり日本のエンターテインメント界で独自の地位を築いてきたTOKIOの歩みと、今回の解散に至る経緯を振り返ります。

コンプライアンス違反問題がTOKIO解散の要因となった国分太一コンプライアンス違反問題がTOKIO解散の要因となった国分太一

TOKIO結成からデビュー、そして初期の苦悩

1990年に結成されたTOKIOは、旧ジャニーズ事務所としては珍しいバンド形式を採用した5人組グループでした。そのルーツは、かつて「東京」というグループ名で活動していた男闘呼組の系譜を継ぐものとも言われています。

国分氏は、元SMAPの稲垣吾郎氏と同学年で、デビュー前にはSMAPの一員として雑誌に紹介された時期もありましたが、本格的な活動は「平家派」というグループに参加してからでした。平家派には、城島茂氏(54才)や山口達也氏(53才)といった後にTOKIOのメンバーとなる面々のほか、元V6の坂本昌行氏や反町隆史氏らも在籍しており、主に光GENJIのバックダンサーを務めていました。

平家派が自然消滅した後、くすぶっていた国分氏に転機が訪れたのは16才の時でした。当時の事務所は国分氏にそれほど大きな期待を寄せていませんでしたが、雑誌のジャニーズJr.特集に対する読者アンケートで予想以上の反響があったことが彼の評価を変えました。「ファンが認める国分を新しいグループに入れよう」という流れになり、TOKIOへの加入が決まります。

さらに、1991年に入所した長瀬智也氏(46才)が加入したことで、グループのデビュー後の成功は確実視されるようになりました。当時、事務所に送られてきた年間100万通以上という膨大な数の履歴書の中で、長瀬氏の写真は抜きん出たオーラを放っていたといいます。合宿所で長瀬氏が挨拶に訪れた際、国分氏は笑顔で彼を迎え入れましたが、長瀬氏自身はKinki Kidsと組みたいと考えていたため、ショックを受けたというエピソードも残っています。

1994年、「ダテに待たせたわけじゃない」というキャッチフレーズと共に華々しいデビューを飾ったTOKIOは、ファーストシングル『LOVE YOU ONLY』の発売からわずか約2ヶ月後に日本武道館のステージに立ち、同年のNHK紅白歌合戦に初出場するという快挙を成し遂げ、順調なスタートを切りました。

しかし、その裏では苦悩もありました。中学時代から地元でバンド活動を行っていた国分氏は、「なぜこんな歌謡曲をやらなければいけないんだ」と事務所の方針に猛反発することもありました。メンバー間の仲も必ずしも良好とは言えず、グループの人気は当初なかなか定着しませんでした。プロモーションに多額の費用がかけられたデビュー曲もオリコンチャートの3位止まりで、ブレークしていたSMAPを目の当たりにした国分氏は、「一度でいいから売れてみたい」と悔しさを滲ませていたといいます。シングルがオリコン1位を獲得するのは、2001年に22枚目のシングル『メッセージ/ひとりぼっちのハブラシ』をリリースするまで、デビューから実に7年以上の月日を要することになります。

『ザ!鉄腕!DASH!!』での成功と過酷なロケ

TOKIOにとって最大の転機となったのは1998年でした。深夜番組として放送されていた冠番組『ザ!鉄腕!DASH!!』がゴールデンタイムに進出し、TOKIOは一躍、お茶の間の人気者となりました。この成功について、国分氏は自身の著書で「身近なあんちゃん達が、体も張るしアイドルとして歌も歌う。そういう存在みたいなものを確立できた」と分析しています。

国分氏はかつて「もっとアメリカンロックに近い感じの曲をやりたい」と事務所側に直訴したこともあったそうですが、「いまの仕事を全部ゼロにするならいい」と言われ、現実を突きつけられたといいます。この経験から、仕事があることのありがたみを実感し、その頃からようやく目の前の仕事に真剣に取り組むようになったと関係者は語っています。

その後、『ザ!鉄腕!DASH!!』は最高視聴率27%を記録するなど国民的な人気番組となり、30年以上続く長寿番組となりました。しかし、番組側の要求は回を重ねるごとにエスカレートし、ロケは過酷を極めたといいます。早朝から深夜まで撮影が続き、メンバーもスタッフも睡眠時間を削って収録に臨む日々でした。特に長瀬氏はDASH島でのロケが多く、体力的には相当厳しい状況だったと番組関係者は証言しています。スタッフも疲弊し、演出を巡って意見が対立することもあったほど、現場は常にギリギリの状態で撮影が行われていたのです。

31年の歴史に幕を下ろしたTOKIO

順風満帆とは言えない道のりの中、不屈の精神で独自のアイドル像を確立し、国民的な人気を獲得したTOKIO。31年という、旧ジャニーズ事務所では少年隊に次ぐ長さの活動期間を誇り、「不祥事さえなければ解散することはない」とまで思われていたグループでした。しかし、中心メンバーである国分太一氏のコンプライアンス違反問題が発端となり、わずか数日の間に活動休止、そしてグループ解散という衝撃的な結末を迎えました。これは、長年にわたり彼らを応援してきた多くのファンにとって、また日本の芸能界にとっても、非常に大きな出来事となりました。