近衛文麿と荻外荘:昭和の激動を映す邸宅の物語

近衛文麿。昭和の激動期に三度も首相の座に就きながら、その評価は芳しいものとは言えません。日中戦争の泥沼化、そして第二次世界大戦への道筋。歴史の転換点で翻弄された近衛の人生は、東京・荻窪の私邸「荻外荘」と深く結びついています。この記事では、荻外荘の歴史とそこに残る近衛の足跡を辿り、激動の昭和史を紐解いていきます。

荻外荘:近衛文麿の安息の地、そして歴史の舞台

荻窪駅から南へ徒歩10分。閑静な住宅街に、ひっそりと佇む「荻外荘」。日本初の建築史家、伊東忠太の設計による和洋折衷の邸宅は、もとは医師・入澤達吉の邸宅でした。近衛文麿はこれを譲り受け、元老・西園寺公望の命名により「荻外荘」と名付けました。広大な庭、池、そしてゴルフグリーンまで備えたこの邸宅は、近衛にとっての安息の地となりました。

近衛文麿の邸宅「荻外荘」の外観。近衛文麿の邸宅「荻外荘」の外観。

しかし、荻外荘は単なる私邸ではありませんでした。歴史の転換点となる重要な会議の舞台となったのです。1940年、第二次世界大戦勃発を受け、近衛は荻外荘に松岡洋右外相、東條英機陸相、吉田善吾海相を集め、いわゆる「荻窪会談」を行いました。ここで確認された新体制構築は、日本の政党政治の終焉を意味するものでした。

荻窪会談:同床異夢の四者会談

「荻窪会談」は、しかし、同床異夢の会談でした。南方進出を目指す海軍、対ソ戦を視野に入れる陸軍。近衛は、これらの思惑が交錯する中で、苦悩を深めていきます。

荻窪会談の様子。近衛文麿、松岡洋右、東條英機、吉田善吾の4人が写っている。荻窪会談の様子。近衛文麿、松岡洋右、東條英機、吉田善吾の4人が写っている。

会談が行われた客間は、現在も当時の姿に復元されています。30平方メートルほどの洋室の中央には、紺色の西陣織が掛けられた丸テーブルと4つのソファ。壁には亀とニシキエビの細工物が飾られ、伊東忠太のアジア趣味が感じられます。当時の写真を見ると、軍服姿の東條、白い夏服の松岡、和服姿の近衛の姿が。テーブルの上にはメモ帳と団扇。緊迫した状況の中で、どのような議論が交わされたのか、想像力を掻き立てられます。

戦争への道、そして自死

近衛は、 ultimately、戦争への道を避けることができませんでした。「私は戦争には自信がない」という言葉を残し、首相の座を降りた近衛。その後、終戦工作に関与するも、戦争責任を問われ、GHQからの逮捕指令を受け、荻外荘で服毒自殺を遂げます。

書斎:最期の場所

近衛が最期を迎えた書斎は、彼が数寄屋風に改築したもので、当時のまま保存されています。中央には大きな座卓、隅には屏風。そして、壁には仏壇が設けられています。13歳で家督を継いだ近衛。死の間際、先祖の位牌に何を語りかけたのでしょうか。

歴史学者、山田一郎氏(仮名)は、「近衛は、時代の流れに翻弄されながらも、平和を希求していた。しかし、その願いは叶わず、悲劇的な最期を迎えた。荻外荘は、近衛の苦悩と葛藤を物語る場所と言えるだろう」と述べています。

荻外荘は、単なる歴史的建造物ではありません。近衛文麿という人物の生き様、そして激動の昭和史を映し出す、貴重な遺産なのです。ぜひ一度訪れて、歴史の重みを感じてみてください。