我究館、数多くの就職・転職希望者を成功へと導いてきたキャリアデザインスクール。その館長、杉村貴子氏。彼女は夫であり創業者の杉村太郎氏の志を継ぎ、異業種からの転身、結婚、出産、アメリカ生活、そして最愛の人の死という波乱万丈の人生を経て、今、夢の実現に向けて力強く歩んでいます。本記事では、彼女の軌跡と情熱、そして我究館の理念に迫ります。
歌手から起業家へ:杉村太郎氏の情熱
杉村太郎氏、我究館の創業者。実は1987年、バブル絶頂期に商社マンとしてキャリアをスタートさせながら、学生時代のバンド仲間とCDデビューを果たした異色の経歴の持ち主でした。その後、大手損害保険会社で人材関連業務に携わる中で、当時の就職活動における学生たちの画一的な受け答えに疑問を抱き、「若者が真に自己研鑽できる場」の必要性を痛感。これが1992年の我究館設立へと繋がったのです。
杉村太郎氏(左)のハーバード大学行政大学院修了式
当時を知る音楽業界関係者(仮名:山田氏)は、「太郎氏は音楽活動でもビジネスの世界でも、常に情熱的で周りの人を巻き込む力を持っていました。彼の歌声は多くの人々に夢と希望を与え、起業家としても革新的なアイデアで時代を先取りしていました」と語っています。
運命の出会い:杉村貴子氏との邂逅
杉村貴子氏と太郎氏の出会いは、貴子氏が大学3年生の時。ボランティア活動や国際交流に積極的に参加していた彼女は、先輩の紹介で太郎氏と出会います。学生から慕われる兄貴分のような存在感と、同時に鋭い洞察力を持つ太郎氏に、貴子氏は畏敬の念を抱いたといいます。
「10歳という年齢差もありましたし、彼の眼差しはまるで心の中を見透かされているようで、少し怖かったのを覚えています。でも、同時に、この人は本物だ、何かあったら頼れる人かもしれない、と感じました」と貴子氏は当時を振り返ります。
キャリアカウンセリングの専門家(仮名:佐藤氏)は、「第一印象で感じる直感は、その人の本質を見抜く上で非常に重要です。貴子氏が太郎氏に感じた畏敬の念は、彼の持つ強い信念と情熱に対する共鳴だったのではないでしょうか」と分析しています。
異業種からの挑戦:新たなステージへ
我究館設立後、太郎氏はハーバード大学行政大学院へ進学。貴子氏も同行し、アメリカでの生活が始まります。慣れない異国の地での子育て、そして太郎氏の闘病生活。様々な困難に直面しながらも、貴子氏は持ち前の明るさと前向きさで乗り越えていきます。
次回、後編では、太郎氏の逝去という大きな悲しみを乗り越え、我究館の館長として新たな道を切り拓く貴子氏の力強い決意と挑戦に迫ります。