【関ヶ原の戦い】石田三成、敗北の真因とは?秀頼への忠誠か、家康の権力か?

関ヶ原の戦い。天下分け目の決戦で、西軍を率いた石田三成はなぜ徳川家康に敗れたのか? 彼の敗北は、単なる戦術の失敗ではなく、より深い戦略的誤算に起因していたと言えるでしょう。本稿では、国際日本文化研究センター助教の呉座勇一氏の著書『日本史 敗者の条件』(PHP新書)を参考に、三成敗北の真因に迫ります。

三成の誤算:過信と現実の乖離

三成は挙兵、大坂城占拠、「内府ちがいの条々」の発送まで、計画は順調に進みました。しかし、その後の展開は彼の予想を大きく裏切ることになります。

「内府ちがいの条々」の効果の過大評価

三成は「内府ちがいの条々」によって、西日本大名の支持を集め、家康軍の離反を誘発できると考えていました。しかし、現実はそう甘くありませんでした。西日本大名の多くは表向きに従うだけで、積極的な協力者は立花宗茂、長宗我部盛親など少数派。家康軍からの離反者も真田昌幸などごくわずかでした。

altalt

三成は豊臣秀頼の権威を過信し、情勢を楽観視していたと言えるでしょう。しかし、諸大名にとって重要なのは秀頼への忠誠ではなく、絶大な権力を持つ家康への追従でした。三成は、この冷徹な現実を読み違えていたのです。

伏見城攻略の遅延

伏見城の攻略に予想外の時間を要したことも、西軍の士気を大きく低下させました。わずか2000人にも満たない守備隊相手に手間取ったことは、西軍の威信を失墜させる結果となりました。

家康の戦略:西上阻止と権力掌握

家康は会津征伐から反転し、西上してくることが予想されていました。そのため、西軍の基本戦略は家康の西上阻止でした。当時のイエズス会宣教師の記録『十六・七世紀イエズス会日本報告集』には、西軍が街道封鎖によって家康の進軍を阻止しようと計画していたことが記されています。

西軍の防衛戦略

西軍は伊勢と美濃に兵力を集中させ、家康軍の西上を阻止しようとしました。尾張の制圧も企図していたようです。しかし、家康の権力基盤は固く、諸大名は家康に味方しました。

家康の権力の強大さ

三成は家康の権力の強大さを過小評価していました。「内府ちがいの条々」で家康の正当性を否定しても、諸大名は依然として家康に従ったのです。これが、三成の敗北の最大の要因と言えるでしょう。

まとめ:三成敗北の教訓

石田三成の敗北は、秀頼への忠誠を過信し、家康の権力の強大さを見誤ったこと、そして諸大名の動向を正確に把握できなかったことに起因します。歴史に「もしも」はありませんが、もし三成が家康の真の力、そして時代の流れを正しく認識できていたら、関ヶ原の戦いの結果は大きく異なっていたかもしれません。

関ヶ原の戦いは、権力と忠誠、そして現実と理想の狭間で揺れ動く人間のドラマを映し出しています。私たちも、過去の出来事から学び、未来への教訓としたいものです。