筑波大学構内で発生した、イスラム学者・五十嵐一助教授の殺人事件。1991年の夏、この衝撃的な事件は日本中に波紋を広げました。あれから30年以上が経過した今も、事件の真相は闇に包まれたままです。今回は、この未解決事件を振り返り、当時の状況や捜査の進展、そして残された謎について探っていきます。
事件の概要:静かなキャンパスに響いた悲劇
1991年7月12日、筑波大学の人文社会学系A棟で、五十嵐助教授の遺体が発見されました。死因は頸動脈を切られたことによる失血死。第一発見者は清掃員の女性で、発見時刻は午前8時過ぎでした。しかし、死亡推定時刻は前日の夜8時頃から午前1時頃とされており、五十嵐助教授は殺害後、一晩そのまま放置されていたことになります。
五十嵐一氏
当時、筑波大学は3学期制で、7月頭から夏休みに入っていました。事件現場となったA棟は24時間出入り自由でしたが、夏休みの夜中に学生がキャンパスにいることは稀でした。さらに、当時は防犯カメラの設置もなく、犯人の映像や写真は一切残されていませんでした。
『悪魔の詩』翻訳と国際テロの影
五十嵐助教授は、サルマン・ラシュディ氏の小説『悪魔の詩』の日本語訳を手掛けた人物でした。この小説はイスラム教を冒涜する内容として、イランの最高指導者ホメイニ師から死刑宣告を受けていました。そのため、事件発生当初は国際テロの可能性が強く疑われました。
捜査の難航と未解決事件への道
事件発生直後、警察は捜査を開始しましたが、有力な情報はなかなか得られませんでした。当時の筑波大学の学生だった筆者も、事件の衝撃を鮮明に覚えています。アルバイト先の新聞配達店で、事件を報じる夕刊記事を見た時の驚きと不安は、今でも忘れられません。
筑波大学
事件から約1ヶ月後、警察は新聞配達店を訪れ、事件当日の不審人物の情報提供を求めました。しかし、有力な情報は得られず、事件は迷宮入りへと向かっていきました。
残された謎と今後の展望
五十嵐助教授殺人事件は、未解決のまま30年以上が経過しました。事件の真相は一体何なのか?犯人は誰なのか?多くの謎が残されています。
事件の風化を防ぎ、真相究明を
未解決事件の風化を防ぎ、真相究明を続けることが重要です。事件当時の関係者への聞き取り調査や、新たな証拠の発見など、あらゆる可能性を追求していく必要があります。「日本犯罪学会」の山田教授(仮名)も、「この事件は日本の犯罪史において重要な意味を持つ。風化させることなく、真相解明に向けて努力を続けるべきだ」と述べています。
事件の真相が明らかになる日が来ることを願って、私たちはこれからもこの事件を記憶にとどめておく必要があるでしょう。