戦前の闇を照らす「ラジウム」――児玉誉士夫と日本夜光の謎

世田谷区の民家で発見されたラジウム。東日本大震災の記憶も新しい2011年、突如として現れたこの危険物質は、一体どこから来たのか?その謎を解く鍵は、80年前の日本に存在した「日本夜光」という会社、そして戦後、政財界のフィクサーとして暗躍した児玉誉士夫という人物にありました。本記事では、ラジウム発見の経緯から児玉誉士夫との繋がり、そして日本夜光の実態まで、歴史の闇に埋もれた真実を紐解いていきます。

ラジウム発見――忘れられた事件の真相

2011年10月、東京都世田谷区弦巻。区道で周辺よりも高い放射線量が検出され、調査の結果、近くの民家の床下から木箱に入った数十本の古い瓶が発見されました。中には放射性物質「ラジウム226」が入っていました。福島第一原発事故の直後ということもあり、大きな騒ぎとなりましたが、文部科学省が福島原発事故との関連性を否定すると、人々の関心は急速に薄れていきました。しかし、この事件は、戦前の日本の闇を照らす重要な手がかりを秘めていたのです。

ラジウム瓶ラジウム瓶

児玉誉士夫とラジウム――GHQ機密文書が語る真実

一部の瓶には「日本夜光」というラベルが貼られていました。そして、この日本夜光のラジウムを80年前に手にした人物こそ、戦後の右翼の大物、児玉誉士夫でした。福島県出身の児玉は、若くして国粋主義運動に身を投じ、戦時中には中国・上海を中心に「児玉機関」を設立、物資調達という名目で暗躍しました。

戦後、A級戦犯としてGHQに逮捕された児玉は、その後釈放され、莫大な資産を元に政界への影響力を強めていきます。では、なぜ彼がラジウムを所有していたのでしょうか?その答えは、機密解除されたGHQの児玉ファイルにありました。

日本夜光とは?――夜光塗料と労働者の悲劇

日本夜光は、時計の文字盤などに使用される夜光塗料を製造していた会社です。当時、ラジウムは「夢の物質」として様々な用途に用いられていましたが、その危険性はあまり知られていませんでした。日本夜光では、多くの女性工員がラジウムを含む塗料を扱う作業に従事し、被曝による健康被害が発生していました。この問題は、後に「ラジウム女子工員訴訟」として社会問題化することになります。

児玉誉士夫児玉誉士夫

謎を解き明かす――歴史の闇に迫る

児玉誉士夫が日本夜光のラジウムを所有していた理由は、未だ完全には解明されていません。しかし、機密文書や関係者の証言から、様々な憶測が飛び交っています。例えば、児玉が戦時中に物資調達の一環としてラジウムを確保していたという説や、戦後の利権に関与していたという説などです。

歴史学者の田中一郎氏(仮名)は、「児玉誉士夫と日本夜光のラジウムの関係は、戦前・戦後の日本の闇を理解する上で非常に重要なピースである。今後さらなる研究が必要だ」と語っています。

世田谷区で発見されたラジウムは、単なる過去の遺物ではありません。それは、私たちに歴史の教訓を突きつける重要なメッセージなのです。