「納得できない命令をされた」とき、不幸体質の人は「不満を抱く」。では、絶対に悩まない人はどう考える?


● 納得できないことをやらされる日々

 修道院での生活は、私利私欲を滅した、ある種、兵隊のような生活です。

 「なぜ?」と疑問に思ったところで、「それが神に仕えるということです」「それが神の意志です」と返されるだけでした。

 答えになっていませんし、当然、納得はできません。
 でも納得していないからといって、日々のルーティーンをしなくていいわけではありません。やらないと厳しく怒られます。

● 「理由」なんて、どうでもよくなってくる

 ところが忙しいルーティーンをこなしていくうちに、理由や目的なんてどうでもよくなっていきます。

 予定をこなし、先輩たちについていくので必死になるからです。

 しだいに「どうすればスムーズにできるようになるか」「一番になれるか」といった向上心や競争心が出てきて、目の前のことに一所懸命になっていきました。

 最初こそつらかったものの、数年もすれば無意識でできるように習慣化され、無感情で淡々とこなせるようになりました。

 そこで初めて、その習慣の意味を自分なりに考える余裕が生まれます。
 配膳したり掃除したりといった淡々とした日々が、ときに自分の役に立つこともあるのだなと実感しました。

● とりあえず、やってみよう

 よく、手段の目的化はいけないと言われます。
 要するに、「こなす」ことが目的になることです。

 ですが、こなしてみないと見えてこない意味や目的も存在します。

 無意味や無価値に思えることでも、とりあえずやってみると、自分なりの意味を見出せたりするものです。

 (本稿は、書籍『不自由から学べること ―思いどおりにいかない人生がスッとラクになる33の考え方』の内容を一部抜粋・編集して作成した記事です。書籍では他にも、「悩みが消える考え方」を多数紹介しています。)

川原マリア



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