今から80年前の1945年8月、朝鮮半島。ソ連軍の侵攻を知った数万人もの一般邦人が西へ南へ向けて自力で避難を開始したものの、彼らを待ち受けていたのは深刻な食料不足や疫病のまん延、国際法を無視したソ連兵による略奪や暴行だった。
越境は固く禁じられていたため、38度線の突破は決死の道程だった。「いよいよ困ったときは、女ででも買収せねばいかん」。避難民団は、ソ連兵などによる性的暴行から逃れるため、「身代わり」の女性を準備した事例が少なくなかったという……。
そんな窮状を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「一般人」がいた。埋もれた英雄を歴史の奥底から掘り起こしたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。
リュックを背負い、ぞろぞろとプラットホームへ…
17歳の女学生だった神崎貞代は、両親と2人の妹の家族5人で貨物列車と徒歩で北緯38度線を越えた。朝鮮半島の北部の街・清津(チョンジン)から咸興(ハムン)までなんとか一緒に避難した末の妹は1945年10月、栄養失調のため2歳で命を落としていた。
1946年5月25日。神崎一家は東の空が白まぬうちに咸興駅へ着いた。
「夜が明ける前に家を出たのは、列車の発車時刻も分からなければ、時計もなかったからです。駅前の広場に着くと、たくさんの人が座り込んで列車を待っていました」
やがて、何両にも連なった貨物列車がやってくると、避難民たちは地面に置いていたリュックを背負い、ぞろぞろとプラットホームへと歩いていった。森田芳夫著、『朝鮮終戦の記録』によると、この日の列車には計539人が乗車した。
山間部にさしかかったころ、列車は長い時間停車し、避難民は全員降ろされた。北緯38度線から北に約50キロ離れた江原道(カンウォンド)の福渓(ポッケ)だった。一行は、旧遊郭地域の建物で夜を明かした。
いくつかの集落を歩き、また列車に乗り、北緯38度線の少し北に位置する鉄原(チョロン)で列車を降りた。神崎らは徒歩で南北の境を流れる川を目指した。夜中を待って、川に辿り着くと川岸には、4〜5艘の小さな船が繋がれていた。1艘当たりにおよそ10人が乗って、朝鮮人船頭に身を委ね、対岸に着くとピストン輸送を繰り返した。