台湾で最も有名な日本人は誰か。ノンフィクション作家・早坂隆さんの『戦争の昭和史 令和に残すべき最後の証言』(ワニブックス【PLUS】新書)より、日本人土木技師・八田與一(はったよいち)のエピソードを紹介する――。(第1回)
■台湾人で知らない人はいない日本人の正体
台南の市街地で拾ったタクシーの運転手にその行き先を告げると、彼はこう言って笑った。「私たち台湾人にとって大切な場所ですからね。知らないはずがありませんよ」
水田や果樹園が広がる景色の中を一時間ほど走ると、その「大切な場所」に辿り着いた。その地を「烏山頭(うさんとう)ダム」という。このダムとそこから流れ出る農業用水を整備した人物が「台湾で最も尊敬される日本人」と称される八田與一(はったよいち)である。
台湾の教科書には彼の功績が写真入りで大きく掲載されている。明治19(1886)年2月21日、石川県河北(かほく)郡花園村(はなぞのむら)(現・金沢市今町)で生まれた八田は、第四高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学)に入学。工学部土木科で最新の工学知識を学んだ。卒業後、八田は台湾に渡った。総督府の土木局に勤務するためである。
日本が台湾の開発に注力していく中、八田は南部の嘉南(かなん)平野における灌漑工事を任された。当時の嘉南平野は、深刻な干魃(かんばつ)が繰り返される不毛の土地であった。農民たちは慢性的な水不足に悩まされながら、貧しい生活を送っていた。逆に雨季には洪水が発生する時もあり、治水事業はこの地にとって大きな課題であった。
■作業員たちのためにつくった意外な施設
大正9(1920)年、八田の指導の下で大規模な水利工事が始まった。巨大なダムを設けた上で平野部に用水路を張り巡らせ、この地を豊かな大地へと変貌させようというのである。これは日本国内でも前例を見ないほどの壮大な事業であった。工事には、日本人も台湾人も一緒に参加した。その数、およそ2000人。
八田は的確な指示で作業員たちをよくまとめ、危険な現場へも自ら率先して足を運んだ。八田は作業員たちのために、宿舎はもちろん学校や病院まで建設した。「良い仕事は安心して働ける環境から生まれる」という理念のもと、八田は町自体をつくりあげたのだった。
作業員たちは八田に厚い信頼を寄せた。また、八田はパワーショベルやエアーダンプカーといったアメリカ製の最新式の重機を次々と導入。作業の効率化を図った。
そんな八田を支えたのが妻の外代樹(とよき)である。外代樹は八田と同郷の金沢市の出身。実家は開業医で、外代樹は金沢第一高等女学校を卒業後、お見合い結婚によって八田家に嫁いだ。その後、二人は8人の子宝に恵まれた。
結局、嘉南平野におけるこの大工事が終了したのは、着工から10年後の昭和5(1930)年であった。途中、関東大震災の影響で予算が削減されるといった数々の苦労もあったが、未曾有の灌漑用ダムはここに竣工したのである。
■フィリピンに向かう途中で
ダムの周囲の街路樹には、完成の記念として日本の桜が植えられた。ダムの規模は「東洋一」と称された。平野部を縦横に走る用水路の全長は、実に1万6000キロにも及んだ。これは万里の長城の総延長の2.5倍以上に相当する距離である。
ダムと農業用水の効果はすぐに現れた。これらインフラの完成によって、嘉南平野は台湾最大の穀倉地帯へと生まれ変わったのである。農民たちの生活レベルは飛躍的に向上した。
そんな巨大事業を成功させた八田であったが、その後の人生は悲劇的な道を辿った。昭和17(1942)年5月5日、八田は広島県の宇品港から輸送船「大洋丸」に乗船。新たにフィリピンの綿作灌漑調査を命じられた八田は、シンガポールを経由して目的地へと向かう予定であった。八田はフィリピンの農業の発展にも精力的に取り組むつもりだった。しかし、八田がフィリピンの地を踏むことはなかった。
5月8日の午後8時40分、五島列島の南方を航行していた「大洋丸」は、米軍の潜水艦「グレナディアー」などからの魚雷攻撃に遭った。大きく浸水した同船は、雷撃から約55分後に沈没。817名が亡くなるという惨劇であった。その犠牲者の中に、八田與一も含まれていた。
嘉南平野を肥沃な地に変えた男は、志半ばにして逝った。享年56。遺体は約1カ月後、漁師の網に引っ掛かって発見されたという。