近年、日本各地でツキノワグマの出没が相次ぎ、2025年度の出没件数は過去最多の2万件を超えるペースで推移しています。これに伴い、人身被害も過去最悪の状況にあり、社会全体でクマへの警戒感が高まっています。このような状況下で「山にエサがないからクマが里に出没する」という声がよく聞かれますが、これは本当なのでしょうか。本記事では、森林ジャーナリストの田中淳夫氏の見解を基に、クマが人里に現れる真の理由を深掘りし、誤解を解き明かします。
「山にエサがないから里に出る」説の誤謬
「ドングリの凶作が原因でクマが山から降りてくる」という意見は一般的に広く浸透していますが、これは一面的な見方に過ぎません。まず、北日本ではドングリの凶作が報告されているものの、出没は春から増加傾向にあり、西日本には豊作の地域も多く存在します。そもそもドングリの豊凶は数年ごとに繰り返される自然現象であり、今年の状況が特に異常というわけではありません。
また、「人工林にはエサがない」という指摘も、現場の実態とは異なります。林業地を実際に歩くと、スギやヒノキの間に広葉樹や草が生い茂る放置林が頻繁に見られます。天然林から人工林への転換は1960年代にピークを迎えましたが、それ以降は激減しており、60年前の影響が今になって顕著に表れると考えるのは非現実的です。
クマによる被害が過去最悪のペースで増加している様子
クマが人里に接近する真の理由
では、ツキノワグマが山奥から人里に降りてくるようになった本当の理由は何でしょうか。田中淳夫氏によれば、その背景には日本の農林業の衰退と、それによる里山の環境変化が大きく関係しています。
里山の変貌:豊かな食料源
農林業の衰退により、かつての里山で管理されていた耕作放棄地や手入れの行き届かない人工林が増加しました。これらの放置された土地では、広葉樹や様々な草が繁茂し、クマにとって以前よりもはるかに豊富なエサ場へと変貌しています。人里に近い里山が、クマにとって食料が豊富で暮らしやすい「新天地」となりつつあるのです。
個体数の増加と「暮らしやすい新天地」としての認識
エサが豊富になれば、クマの栄養状態は改善し、出産率は向上し、死亡率は低下します。兵庫県の研究では、近年のツキノワグマの増加率が15%にも達していることが示されており、これはクマの個体数が実際に増えている証拠と言えるでしょう。
さらに、人里には人間の残した生ゴミや農作物といった、クマにとって非常に「美味しいエサ」が豊富に存在します。一度その味を覚えたクマは、効率の良い食料源として人里を認識し、繰り返し出没するようになります。人里は、安全かつ容易に食料を得られる、クマにとっての「暮らしやすい新天地」として学習されてしまっているのです。
動物との「共生」の再定義
これらの状況から、私たち人間とクマとの「共生」について、改めてその意味を考える必要があります。それは単に「共に仲良く生きる」という牧歌的な意味合いだけでなく、お互いの生息域を尊重し、適切な距離感を保ちながら、リスクを管理していくという現実的な視点が不可欠です。クマの個体数増加や生息域の変化に適応した、新たな対策と管理体制の構築が喫緊の課題となっています。
結論
ツキノワグマの出没急増は、「山にエサがない」という単純な理由によるものではなく、農林業の衰退による里山の環境変化、それによるクマのエサ資源の増加、そして結果としての個体数の増加が複雑に絡み合った結果です。人里がクマにとって魅力的な「新天地」となり、美味しい農作物が彼らを引き寄せています。私たちは、この現実を直視し、感情的な議論ではなく、科学的根拠に基づいた理解と、適切な管理策を通じて、人間とクマが共存できる道を模索していく必要があります。





