1984年、アントニオ猪木の事業失敗を契機に発足した第一次UWFは、エンターテインメント色が強かったそれまでのプロレスに飽き足らないファンから熱狂的な支持を得ることになったが、その船出はけっして順風満帆とはいいがたいものだった。あれから40年、旗揚げ戦に猪木が姿を現すことがなかったことへの戸惑いから、因縁となる佐山聡との関係までを、UWFのエース・前田日明が振り返る。
*本稿は、別冊宝島編集部の『UWF過剰考察 第一次から3派分裂後までの10大事件』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
■「猪木さんは来ると思っていた」
「俺にとってUWFとは遠い昔であり、人間は大金を目にするとみんな豹変してしまうというカネの怖さを思い知った時期ですよ。
まず、ユニバーサルプロレス(第一次UWF)が誕生した経緯はご存じのとおり、猪木さんと新間(寿)さんが新日本とは別の団体をつくろうとしたわけでしょ。
そうしてかつて日本プロレスが日本テレビとNET(現・テレビ朝日)の2局でプロレス中継を流していたあのシステムを目指したんだよね。
だってさ、あの頃の新日本は金曜夜8時の裏番組が『太陽にほえろ!』と『3年B組金八先生』というとんでもない人気番組だったのに、プロレスの視聴率が勝ってたんだからね。
だけど結局、猪木さんの事業(アントン・ハイセル)がうまくいってなくて借金の問題がクローズアップされていたから、テレ朝以外のテレビ局はどこも手を出したがらなかったんだよ。借金の問題さえなかったらフジテレビはユニバーサルの放送をやっていたと思う。
だけど、そんな事情を知らない俺は大宮スケートセンターでの旗揚げ戦(1984年4月11日)に猪木さんは来ると思っていた。新間さんもそれまでずっと強気で『フジとは今も交渉中なんだ』って言ってたんだ。
猪木さんが来ないってわかったのは当日会場に着いてから。猪木さんの姿がない。それでも興行が始まってもみんな『ひょっとして、これから来るかもな』なんて思っていた。
■まるで青春ドラマの主人公になったような気分