沖縄問題は「主権潔癖症」をどう問うか:曖昧さが拓く平和への道

沖縄問題は、日本の国家のあり方を問い続ける課題であり、安易な解決は許されません。対話による粘り強い努力こそが求められます。その核心には、「国家主権」という概念の複雑な性質があります。

「健康」と「主権」に見る共通のジレンマ

軍事基地や医療は、平和な暮らしに不可欠な要素ですが、その必要性を過度に強調すると、かえって生命や生活を損なう側面を持ちます。これは、潔癖症のように手洗いに没頭しすぎると皮膚を傷つけたり、カロリー計算に囚われすぎるとメンタルを病むような、「健康」に対する強すぎる固執が逆効果を生むジレンマに似ています。

実は「国家主権」も同様の性質を持っています。領土紛争は、自国の主権がわずかでも損なわれるリスクを極度に嫌がる「主権潔癖症」のようなもので、各国が過敏に反応し合うことで発生します。相互のアレルギー反応を高じさせれば、最終的には戦争に至ることもあります。

沖縄と尖閣諸島が問う主権の曖昧さ

沖縄の有事は「尖閣問題」から始まると多くの人が口にしますが、当の尖閣諸島の正確な地理的位置を知る人はほとんどいません。どこにあるかも明確でない島のために命を懸けるというのは一見奇妙な話ですが、多くの認識では、そうした問題への意識こそが「主権に基づく平和」を守るために必要とされます。

互いに「放っておけば」大きなトラブルにはならない小さな島嶼であっても、それがどの国の領土かを排他的に決定しないと気が済まないという現状は、主権国家というシステム自体の持つ「欠陥」と言えるでしょう。ところが近年、主権国家が完全無欠で「無謬の規範」であるかのように錯覚する風潮が強まっています。

日本、琉球(沖縄)、中国の地図。曖昧さを許容しない外部介入の歴史を示唆日本、琉球(沖縄)、中国の地図。曖昧さを許容しない外部介入の歴史を示唆

パンデミックと戦争が助長する「主権潔癖症」

令和に入ってからのこの傾向は、2020年からの新型コロナウイルス禍における過剰な「健康」への固執が、感染回避を絶対視するあまり国民生活を損ねたことと軌を一にしています。そして、2022年からのロシア・ウクライナ戦争が、国家主権への潔癖症をさらに助長しました。

2014年以来紛争状態にあったドンバス(ウクライナ東部)は、どの国の主権に服するか曖昧なまま、親ロ派武装勢力による「独立国家」をロシアほか少数の国のみが承認し、多数派が認めないという「落としどころ」で収まっていれば、今日のような甚大な犠牲は出なかったかもしれません。しかし、一度戦争が始まると、そうした領土の帰属を「曖昧にする」解決策に戻ることは極めて困難になります。

結論

主権「潔癖症」は平和を損ないかねません。沖縄問題には、安易な解ではなく、主権国家の限界を認め、対話を通じた「曖昧さ」の許容が不可欠です。この粘り強さこそが決裂を防ぐ道となります。