「私がいなくなったら、警察に『オウムの仕業』と言って」 最後まで妹を守り亡くなった假谷清志さん監禁致死事件 記者が語る捜査機関の“負の連鎖”


全4回の第1回

【秘蔵写真】凶漢の刃先と「刺されたことがまだわかっていない」表情の村井秀夫

 ***

 1995年5月15日。この日は早朝4時から半日以上、第6サティアン裏の検問所に立ち、オウム信者や車の出入りなどをチェックしていた。私は社会部の入社5年目の駆け出し記者だった。社会部では半月交代くらいで山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)に4~5人の若手記者を送り込んでいた。

“上九入り”してから4日目、村内に点在する教団施設“サティアン群”の複雑な位置関係もまだおぼつかない状態であった。夜7時前に交代となり取材団が泊まり込んでいた宿に戻る。上九一色村に程近い鳴沢村の木造2階建て旅館「吉野荘」だった。

「麻原の逮捕状請求のウラが取れました! 各自配置に就いてください!」

 余談だが、吉野荘の前を数年後に通ると、立派な鉄骨5階建てに改装されホテルのように変貌、名前も「リゾートイン吉野荘」に変わっていた。

 風呂に入り夕食を終え、疲れた体を布団にようやくもぐりこませた瞬間だった。「本社から麻原の逮捕状請求のウラが取れました! 各自配置に就いてください! 早朝にも麻原逮捕です!」の館内一斉連絡が轟いた。

「マジかよ、やっと床に就いたのに……」

 取材団は記者とカメラマン、助手の3人でワンチームとなり、各持ち場に散っていく。「いよいよですね、朝から特番ですかね」などと話しながら、私は大阪の系列局から来ていた“相棒”のカメラクルー2人とタクシーに乗り込み、再び第6サティアン裏へと急いだ。30年前の手帳を見ると夜10時に“現場復帰”と書いてある。5月も中旬だったが、上九一色村は標高1000メートルほど。日が暮れると急激に気温が下がり厚手のコートを着ていないと張り番などできない寒さだった。当時は牧場がたくさんあり、都会で育った私には伸び伸びと放牧されている牛たちの姿が新鮮に見えた。牧草と牛糞の匂いがあいまったなんとも言い難い空気が漂っていた。



Source link