外務省にとっての「失敗の本質」――エリート官僚はなぜ「大東亜共栄圏」に行き着いたのか


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外務省にとっての「失敗の本質」

 広く知られる、戸部良一他『失敗の本質』(中公文庫、1991年)では、日本陸軍の「失敗の本質」を陸軍の組織論に求めている。著者は、陸軍についてのその議論を認めつつ、外務省にとっての「失敗の本質」は異なるのであり、その外務省の「失敗の本質」を問うにはその前提や背景、さらには基層をなす秩序観や世界観といった観念のレベルから問い直す必要性があると述べる。外務官僚たちは「自らの権益の内在的論理からのみ発想し、他国の視座への想像力を欠いたものになったために挫折していった」のだから、その内在的理解とは何かというのが本書の出発点である。

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 この矛盾はいつ形成されたのか。それは日露戦争であった。日露戦争を通じて、小村寿太郎の「満鉄中心主義」が形成され、日本の満洲(のちに満蒙)権益を諸列国に認めさせつつ、一方で「門戸開放」「機会均等」の原則を横目で睨み、両者のバランスを保つことが命題とされ、「これがのちの外務官僚たちへと継承されていくことになる」という。つまり「矛盾をはらんだ両義的な外交政策」を生み出したのは、他ならぬ小村寿太郎だったというのである。

 ではなぜ外務官僚たちはその矛盾の克服に失敗したのか。著者は、外務省がこの矛盾の克服という難題に直面しながらも、結局「そもそも対英米協調があくまで経済権益の確保・拡大という命題を達成するうえで支障のない範囲ないで試みられたに過ぎなかった」という。しばしば対英米協調の旗手のように言われる幣原喜重郎でさえ、満洲事変後に撤兵の条件を自ら吊り上げた。それも満蒙権益を守るためであった。このような姿勢が「第一〇九号電報」に結びついたというのである。そして、この電報以後に陥った窮地から抜け出すための乾坤一擲の試みが大東亜共同宣言であったという。しかし、この宣言は、非現実的な地域主義であり、アジアの「解放」と資源の「開放」という両義性に揺れる、虚実の入り交じった、砂上の楼閣だったと著者は言う。矛盾の克服はもはや困難だったのである。



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