乗員乗客107人の死者を出した、JR史上最悪の惨事・福知山線脱線事故から20年。脱線・転覆の10秒間に、いったい何が起きていたのか。生死を分けたものは何だったのか。重傷を負った生存者にふりかかった様々な苦悩と、再生への歩みとは――。
【衝撃写真】ブルーシートには血まみれの人たちが…107人が死亡した“凄惨な電車事故”の事故現場を見る
ここでは、遺族、重傷を負った被害者たち、医療従事者、企業の対応など、多角的な取材を重ねてきたノンフィクション作家・柳田邦男氏の著書 『それでも人生にYesと言うために JR福知山線事故の真因と被害者の20年』 (文藝春秋)より一部を抜粋。2両目に乗っていた女子大生(19歳)の証言を紹介する。(全3回の1回目/ 2回目に続く )
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1両目の死者を上回る大きな被害を出した2両目
2両目の乗客たちは、どのような状況に巻き込まれたのか。
2両目は脱線した後、1両目との連結器がはずれて、ほぼ線路沿いに突進し、マンションに正面からは衝突しなかったものの、左側面をマンションの角に激しくぶつけたため、車両の後半部は3両目に押されて、時計の針が進む方向へ回転し、全体を「くの逆向きの形」にして左側面全体をマンションの壁に激突させた。
空から撮影した写真を見ると、2両目は車両の横幅がほとんどなくなったと言えるほどぺしゃんこになって、マンションにへばりついた形になっているのがわかる。このため、2両目の死者は1両目の死者を上回るほど大きな被害を出す結果となった。
2両目の最前部と言ってよい位置に乗っていたのは、山下亮輔と同じように大学に通い始めたばかりの19歳の三井花奈子だった。1年浪人して受験勉強に励み、念願の同志社大学に入れたので、母親・ハルコの目には健気に見えるほど、真摯に授業に出ていた。
「車内でくっつき合うのはいやだな」2両目の一番前の列から乗車した
この日は、2時限目の授業から出ればよかったので、川西市の自宅からバスでJR福知山線の川西池田駅に出て、午前9時過ぎの上り快速電車に乗れば、同志社前駅まで直行するので、授業に間に合う。その通学に慣れてきた時期だった。
同志社前駅では1両目が改札口に近くて便利なので、川西池田駅のホームに入ると、1両目の行列の後ろに並んだ。4つのドア別に4つの行列ができていて、花奈子が並んだのは、1両目の後部ドア列だった。見回すと、行列の人数が1両目に集まっていて、2両目から後ろの列はずっと少なくなっている。
車内でくっつき合うのはいやだなと思った花奈子は、2両目の一番前の列に移動した。そこへ電車が入ってきた。車内に入ると、空席はなかったが、あまり混んでいないのでほっとして、最前部の進行方向に向かって右側の長椅子の前に立ち、吊り革を右手で握った。
長椅子には自分と同じくらいの年に見える若い女性などが座っていた。普段ならすぐに忘れてしまいそうな周りの乗客のことが、異常事態が発生すると、意外に記憶から甦るものだ。