古代エジプト研究の著名な学者として知られる筆者が、まだ何者でもなかった若き日のこと。海外発掘調査チームに初めて参加したが、未熟な大学院生ゆえ右も左もわからない。将来のキャリアのためにも何かを得て帰国しなければならないが、その何かすら見えない中で、彼の目に飛び込んできたものとは。※本稿は、青山和夫、大城道則、角道亮介『考古学者だけど、発掘が出来ません。多忙すぎる日常』(ポプラ社)のうち、大城道則による執筆パートの一部を抜粋・編集したものです。
● これが海外発掘調査チームの凄さか! 若き日の筆者の度肝を抜いた先輩の語学力
語学が必修で必須である海外をフィールドとする考古学・歴史学分野の研究者の世界に限ってではあるが、読める・書ける以上に現地で大きな武器となるものがある。それは現地語を話せるということだ。エジプトに行くならばアラビア語、スペインに行くならスペイン語、フィリピンに行くならタガログ語だ。
そのような経験を20代半ばの頃から何度もしてきた。最初の体験は、発掘調査の隊員の1人として訪れたシリアのパルミラ遺跡においてであった。そこで現地の人々に対してアラビア語をしゃべる大学の先輩に驚いたのだ。
その先輩はアメリカの大学を出ていたので英語が堪能であることは以前から知っていたが、まさかアラビア語ができるとは夢にも思わなかった。日本を発ち、ドバイ経由でシリアのダマスカス国際空港に到着し、その日は市街のホテルに宿泊した。そして次の日の早朝に4WDの車に隊員全員で乗り込んで、砂漠のなかにある発掘調査地へと向かった。それが私にとっての憧れの海外調査の第一歩であった。今でも当時の興奮は覚えている。
着いたその足で我々は、調査のサポートをしてくれる現地の博物館へ挨拶に行き、そのまま直接館長室に通された。そのときだった。件の先輩が館長に向かってアラビア語で挨拶し、その後も流暢(りゅうちょう)なアラビア語で会話を始めたのだ。これには正直驚いた。てっきり英語で話すものだと思い込んでいた私は、あっけにとられたのである。
なぜならそれは明らかに挨拶程度の会話というレベルではなく、それを超えていたからだ。館長の方も普通にアラビア語で会話しているように見えた。もちろん私にはチンプンカンプンであった。これは大変な場所にやって来たと感じたことを記憶している。さて何もできない自分はこれからどうしたものかと考えたことも。
● 「足手まといになりたくない」 必死で食らいつく中での「気づき」
翌朝から現場で発掘調査が始まった。現場でも宿舎でも24時間、常に緊張していた。調査隊の足手まといにならないようにできることを自ら探してやった。朝は早めに起き、現場に持参する機器や道具類を車に運び込み、現場ではとにかく積極的に動くことを心掛けた。
ときには現地のシリア人の作業員たちに交じり、墓から掘り出された重い土や砂を車のタイヤを再利用した籠に入れて何度も往復して運んだ。気温が40℃を超えるような真夏であったが、毎日必死だったことだけを思い出す。他の隊員と比べて発掘調査の経験が少ないとはいえ、そしてアラビア語も話せないとはいえ、足手まといにだけはなりたくなかった。
発掘調査を開始して3、4日経った頃、ようやく少し余裕が出てきたのか、周りの様子が気になり始めた。強い日差しを浴びながら地上で墓の平面図を作成するために2人組で平板測量する人たち、地下墓の底で立面図を取るためにトータルステーション(距離と角度を同時に測れる測量機器)を使用したり(写真1)、そのトータルステーションからの光を受けるターゲット(測定対象物の上に設置するミラーの付いた目標物)を持っている人たち、その傍で画板を抱えながらしゃがみ込んで、土器や人骨などの遺物実測をしている人たち、そしてそのなかで件の先輩だけが作業の合間に下を向いて野帳(測量野帳)に何かをペンで書き込んでいた。