「子どもをナメたようなふざけた詞だ」77歳のエッセイストが一刀両断した、有名な童謡とは?


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● 一番懐かしい思い出は72年前 たった5年しか住んでいない町

 わたしが生まれたのは大分県佐伯市である(現在、さいき、と表記されるようだが、わたしのなかでは、さえき、である)。

 しかし佐伯のことはほとんどなにも覚えていない。

 4歳頃(?)におなじ大分県の竹田市に引っ越したのである。そこで幼稚園に通ったことは覚えている。近所にH家のマー坊ちゃんという子がいた。

 毎朝、コーちゃん、この子をまた連れてってね、とお母さんがマー坊ちゃんを我が家に連れてきていたのである。

 マー坊ちゃんは人見知りの子だった。

 が、わたしはかれと仲良しになり、しょっちゅう遊んでいた。

 わたしは竹田で小学3年までの5年間をすごした。

 いまから72年前のことである。

 そこで生まれたわけではないし、たった5年しか住んでいないのに、竹田が一番懐かしい。

 魚町という通りに住んでいた。

 1階の表半分は父が支部長をしていた保険会社の事務所で、奥の間と2階が住宅だった。

 家は魚町の一角にあった。

 その左の道の坂を下っていくと、川に突きあたり、そこを右折して川沿いに歩いていくと(距離はどのくらいあっただろう)、竹田小学校があった。

 通称どんどんという川で泳ぎ、広瀬神社では相撲をとり、岡城址にもよく行った(これもいまは「岡城跡」というようだが、わたしにとっては、あくまでも「岡城址」である)。

 竹田駅の背後は崖山になっていて、その上の森のなかで遊んだ記憶がある。

 いつなにをするにも、わたしとマー坊ちゃんとイクちゃんとゴトーの4人だった。山のなかで、隠れ家を作った。岩の上から転げ落ちたこともある。

 町が一番活気づいたのは、夏祭りのときだった。

 町内ごとに神輿を担ぎ、子どもたちは「チョーサじゃ」と叫びながら、太鼓を叩いて、市内を練り歩いた。

 「チョーサ」とはなんだったか、わからない。町祭?

● 観光地化したふるさとに 興味がわかない理由

 夕方には、魚町通りの端から端まで、道の真ん中に長テーブルと長椅子をずらーっと並べて、酒盛りがあった。

 当時は魚町全員の一体感があった、とまではいわないが、ある程度の一体感はあったと思う。保険会社の支部長をしていた父親は、仕事柄交際範囲が広く、母も遠く離れた商店の人たちとも交流があった。

 わたしたち兄弟は、隣の久保菓子店のお姉さんとおばあさんに可愛がられた。店にのべつに入りびたり、とくに可愛がられた三男は夕飯までいただいたりした。

 町内の子どもたちも、年上の人は18歳くらいから、わたしたち小学校低学年の子までいて、仲がよかった記憶がある。

 いまでも下町の商店街や、田舎町の商店街などでは、市民同士や町民同士のそのようなまとまりはあろうかと思う。

 わたしにとっては、町民同士の和気藹々の雰囲気を感じることができた、唯一の経験だった。

 しかし竹田では、なにぶん子どもだったので、町の細かいことは覚えていない。瀧廉太郎の旧宅や武家屋敷や、名物らしき魚の頭料理などは知らなかった。

 豊後岡藩の城下町ということも後年知ったのである。

 しかし、それでいいのである。

 現在は観光に力を入れているようだが、観光地としての竹田に、わたしは興味がない(「竹楽」というイベントで、町中を、竹灯籠の燈で盛り上げようとしている)。



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