苅谷 剛彦
政府は高校の授業料無償化政策を決定、大学など高等教育についても財政支援策の拡大に動いている。だが、教育機会の拡大は社会全体の平等化に寄与しない。特に、日本では大学教育と雇用機会の序列構造や閉鎖的な労働市場など、日本特有の仕組みにより格差是正は実現が極めて困難だ。
ネオリベラリズムが重視する「機会の平等」
ネオリベラリズム(新自由主義)が世界を席巻する中で、社会・経済的な不平等の拡大が懸念されている。1970年代には「一億総中流」といわれた日本も、21世紀に入りその例外ではなくなった。市場での競争と、個人の選択およびその結果としての責任を重視する新自由主義者たちは、社会・経済的な不平等の解決策を「機会の平等」の実現に求めてきた。資源の再配分を目指す福祉国家による「結果の平等」に代わり、教育を通じた個人間の競争を求める発想である。政府が主に行うのは、教育機会の供給量の増大や奨学金などを通じた学生への財政的な支援策である。
他方で多くの先進国では、中等教育や高等教育の量的な拡大にもかかわらず、それが社会・経済的な平等実現に大きく貢献していないことを示す実証研究の結果がたびたび確認されてきた。日本も例外ではない。教育機会の平等化だけでは、社会全体の平等化に簡単には結び付かないことが、多くの実証研究で示されてきたのである。
ただし、日本は先進国の中でも特異と言える側面を示す。ことに高等教育に関しては、政府が積極的に教育機会の拡大を通じた社会全体の平等化を目指してきたわけではないからである。そしてそのことは、政府が果たしてきた役割に顕著に現れる。
高等教育の家計支出依存とセカンドチャンスの制約
日本の高等教育は政府による公的支出に依存するよりも、家計支出に大きく依存して拡大してきた。第1に、大学教育機会のおよそ3分の2は私立大学(その収入を学生からの授業料に頼る)が提供する。第2に、国立大学においても授業料が徴収され、しかもそれが1971年以後増加の傾向にある。国立大学の授業料は1975年には私立大学のおよそ5分の1であったが、2008年には3分の1となり、私立大学の授業料に接近している。言い換えれば、公的な支出を抑え、家計からの支出依存をより強めることで、国立大学による機会の平等という政策を日本政府は放棄し続けてきたのである。この点では、授業料が無料で国立が中心の欧州の大学から大きくかけ離れている。
家計からの授業料収入への依存度が高いだけではない。家計への財政補助の点にも日本の特異性が表れる。ドイツの比較政治学者Garritzmannの研究(The Political Economy of Higher Education Finance, 2016, Palgrave Macmillan)によれば、各国の大学教育の授業料と財政支援策の組み合わせは大きく4つに分けることができる。
1つは授業料が無償かつ政府による学生への財政支援も厚い北欧型(低負担・高支援)、2つ目は、授業料は無償だが財政支援は弱い欧州大陸型(低負担・低支援)、3つ目は、授業料は有償かつ高額だが財政支援の厚い米国や英国型(高負担・高支援;ただし近年、財政支援は受給からローンに変化)、そして最後が、授業料が有償で、しかも政府による財政支援が弱い日本をはじめとする東アジア型(高負担・低支援)である。政府の視点から見ると、財政支出を抑制することで安上がりの高等教育制度を作り上げてきたことを示す。
それでも量的に見れば、日本の大学教育は国際比較の視点で見ても、ある程度の量的拡大を遂げてきた。最新の統計によれば、18歳人口のおよそ60%が4年制大学に進学している。これは統計の取り方が異なるとはいえ、英国や米国と比べても遜色はない。ただし、他の先進国との違いもある。そのひとつは、進学者のほとんどが高校を卒業したばかりの18歳に限定される点だ。中等教育修了後にさまざまなキャリアを経た上で、大学で学ぼうとする人々の割合は少ない。その結果、大学進学のチャンスは高校修了後の一時点に集中する。学び直しの機会として大学教育が用いられる機会が少ないということだ。こうしたセカンドチャンスの制約は、大学院への進学機会が限られていること――別の見方をすれば、他の先進国とは異なり、大学院での学位が社会に出てから価値=プレミア=を持たないこと――によってさらに強まる。