「べらぼう」注目の田沼意知とは?父・意次の権勢が生んだ悲劇の嫡男

NHK大河ドラマ「べらぼう」で描かれる江戸時代中期、権勢を振るった老中・田沼意次の嫡男、田沼意知に注目が集まっている。意知は父の地位を継ぐことが期待され、若くして異例の出世を遂げた人物だが、その生涯は民衆から非常に嫌われ、悲劇的な最期を迎えたことで知られている。なぜ彼はここまで不評だったのだろうか。その短い一生を振り返る。

刺殺されても同情されなかった生涯

人はその生涯を終えたとき、「惜しい人を亡くした」と惜しまれることもあれば、「いなくなってくれてよかった」と安堵されることもある。江戸時代中期に一世を風靡した老中・田沼意次の息子である田沼意知は、まさに後者の典型と言えるだろう。彼の不人気ぶりはすさまじく、理不尽な凶刃に倒れ命を落とした際にも、同情されるどころか、むしろ斬りつけた側が喝采を受けたほどだったと伝えられている。

歴史上、「悪役」として語られる人物は少なくない。しかし、意知の場合は、父・意次のように具体的な悪政によって民衆を苦しめたわけではないのに、そこまで嫌われるのは極めて珍しい。一体、彼の人生にはどのような背景があったのだろうか。

異例の出世と悲劇の始まり

田沼意知は寛延2年(1749年)に、父・田沼意次とその継室である黒沢定紀の娘との間に嫡男として生まれた。明和元年(1764年)、数え15歳で意次の後継者と正式に認められ、当時就任3年目だった10代将軍・徳川家治に初めてお目見えを果たした。

その3年後の明和4年(1767年)、父・意次は将軍と老中の間を取り次ぐ重要な役職である側用人に抜擢された。同年、意知は18歳で従五位の下、大和守に叙任されるという異例の早さで昇進を遂げている。さらに2年後の明和6年(1769年)には、父・意次は老中と同等の権限を持つ老中格にまで昇り詰めた。この時、意知は20歳を迎えており、まさに父・意次が権力の頂点へと駆け上がっていく時期と、意知の青年期が重なることになった。

意知にとって、これは父の威光を背景に若くして高位に就くには絶好の機会だったと言える。しかし、この一見幸運に見える巡り合わせこそが、後の悲劇を招く伏線となったのである。

「べらぼう」注目の田沼意知とは?父・意次の権勢が生んだ悲劇の嫡男「べらぼう」で描かれる時代にゆかりのある江戸城(現皇居)大手門

若くして父の権力の下で順調に出世街道を歩んだ田沼意知。しかし、その「親の七光り」とも見られかねない異例の昇進は、次第に周囲からの反感を買い、彼の運命を暗転させていくことになる。

参考文献

  • news.yahoo.co.jp/articles/6819c396d442f153de8ee4de5cc4d61b70cf1e37
  • toyokeizai.net/articles/photo/881868?pn=2