戦災樹木:空襲を生き抜いた「最後の語り部」その知られざる姿

戦争体験者が減りゆく日本において、空襲や原爆の惨禍を生々しく伝える戦災樹木が「最後の生き証人」として注目されています。しかし、その存在や価値はまだ広く知られていません。物言わぬ樹木がいかにして歴史の語り部となり得るのか。『甦る戦災樹木 大空襲・原爆の惨禍を伝える最後の証人』の著者であり、長年調査を続ける明治大学農学部の菅野博貢准教授の研究から、その実態に迫ります。

戦災樹木研究への道のり

約10年前から戦災樹木に注目し、調査を進めてきた菅野博貢准教授は、造園学や都市計画を専門としています。戦災樹木の研究を始めたきっかけは、妻で共同研究者の根岸尚代氏(現・日本大学生物資源科学部 助教)の博士論文研究でした。偶然手にした一冊の本が富岡八幡宮(東京都江東区)の戦災樹木へと導き、「こんな身近に戦争の痕跡があったのか」という驚きが研究の出発点となったといいます。2014年のことです。

太平洋戦争中、日本の中規模以上の都市はほぼ全てが空襲に見舞われました。特に東京は100回以上の空襲を受けたとされます。現代の都市景観では戦争の面影はほとんどありませんが、調査によれば東京都内だけでも200本以上の戦災樹木が現存しています。海外からの観光客が多く訪れる上野恩賜公園にも、多くの爆弾が降り注いだ痕跡として、数多くの戦災樹木が確認されています。1945年3月9日から10日未明にかけての下町大空襲では一夜にして約10万人が犠牲となり、上野公園でも臨時の火葬場が設けられるほどでした。

空襲による損傷を示す、東京都上野恩賜公園の焼け焦げたイチョウの幹空襲による損傷を示す、東京都上野恩賜公園の焼け焦げたイチョウの幹

戦災樹木に共通する特徴と分布

菅野准教授らは、3月10日の攻撃目標地であった深川区(現・江東区)、本所区(墨田区)、浅草区(台東区)の3区から本格的な調査を開始しました。その結果、戦災樹木には「焼け焦げ」「空洞」「傾き」という大きく3つの特徴があることが判明しました。

さらに23区全域を対象に、3月以降の計5回の空襲による焼失区域を詳細に調査。戦災による損傷の可能性が高い樹木を選定し、雷など自然災害ではなく戦災によるものであることを裏付けた結果、約200本を「戦災樹木」として特定しました。証言や記録による裏付けは得られないものの、その可能性が高い「推定戦災樹木」は約150本に上り、合わせて約350本が確認されました。

これら確認された戦災樹木の約7割は、神社や寺院の境内にありました。樹種としては、イチョウ、スダジイ、クスノキが多い傾向が見られます。特にイチョウは耐火性が高く、街路樹としても広く植えられていたため、戦災樹木の中で最も多く確認されています。調査は都内にとどまらず全国に拡大しており、これまでに都内以外でも180本以上の戦災樹木が見つかっています。

なぜ日本に戦災樹木が多いのか

これほど多くの戦災樹木が現在も残っているのは、世界的にも稀であり、日本特有の現象です。ドイツのドレスデンなど、他国にも戦争で損傷した木が伝えられていますが、その数は日本の比ではありません。

この理由の一つとして、日本への空襲で使用された爆弾の種類が挙げられます。日本の都市の大部分が木造家屋であったため、アメリカ軍は都市を焼き払うことを目的に、燃焼に特化した焼夷弾を多用しました。この強力な熱線に曝されながらも生き残った樹木が、戦災樹木となったのです。

そして、これらの樹木が伐採されずに今なお残り続けている背景には、日本人の樹木に対する独自の感覚や自然観が関係していると菅野准教授は指摘します。戦災樹木の多くが神社仏閣にあることは象徴的です。古来よりご神木として崇められてきた大木は、たとえ戦災によって無残な姿になっても、畏敬の念から伐採されることなく大切に残されたのです。その象徴とも言えるのが、大阪市中央区谷町にある「楠木大神」です。1945年3月13日から翌日未明にかけての大阪大空襲で被災し、枯死した状態にもかかわらず、戦後の道路拡張工事の際も撤去されずに道路の真ん中に堂々と立っています。

戦災樹木は、戦争の記憶が薄れゆく現代において、空襲の凄まじさや当時の人々の暮らしを今に伝える貴重な戦争遺産です。菅野氏らの調査によってその存在が明らかになり、特性や分布も解明されています。これらの樹木を「最後の語り部」として認識し、未来世代へ語り継いでいくことの重要性が改めて浮き彫りになっています。

[引用元] Yahoo!ニュース(Wedge)
https://news.yahoo.co.jp/articles/535b066fbf0decf3c99a9e4f416dfc12bb3192b3