ジョン・レノン、シンシア・パウエルへの若き日の「飾り気ない」ラブレター競売へ

ビートルズのジョン・レノンが将来の妻となるシンシア・パウエルに宛てたラブレターが、ロンドンでの競売にかけられることになった。このジョン・レノン ラブレター 競売は、単なる遺品としてだけでなく、彼の若き日の飾り気のない一面や、バンド初期の様子を伝える貴重な資料として注目されている。手紙にはポール・マッカートニーへのユーモラスな言及も含まれているという。

ジョン・レノンがシンシア・パウエルに送った競売出品中のラブレターの画像ジョン・レノンがシンシア・パウエルに送った競売出品中のラブレターの画像

競売概要と手紙の内容、若き日の吐露

クリスティーズが主催するこの競売は、7月9日にロンドンで開催される。手紙は合計4ページにわたり、予想落札価格は最高4万ポンド(約780万円)と見込まれている。

手紙の中で、当時21歳だったジョンは、ドイツのハンブルク滞在中にシンシアへの深い恋しさを綴っている。「愛してる、愛してる、愛してる。狂おしいほど恋しい。日曜版の新聞とチョコレート、そしてドキドキとともに、きみのアパートに向かっているところだったらいいのに。ああ、ほんとうに!」と、率直な感情を表現している。

また、手紙の別の箇所には、当時のバンドメンバーであったポール・マッカートニーのいびきについて言及している。「ポールが僕の頭の上で跳びはねている(彼は二段ベッドの上にいて、いびきをかいている)・・・静かにしろ、Mcarntey(原文ママ)」と、ユーモラスかつ不満げな様子が記されている。

手紙が書かれた背景と専門家の見解

クリスティーズの書籍・原稿部門責任者トーマス・ベニング氏は、この手紙について「ふわふわとして、ふざけた卑猥(ひわい)さには心を打つものがある」と評し、レノンの「屈託のない無防備な姿」が見られると述べた。この手紙は、ビートルズがハンブルクのスター・クラブで初の常設公演を行っていた1962年4月19日から24日の間に書かれた。当時、ビートルズはまだリンゴ・スターではなくピート・ベストをドラマーに迎えた布陣で、無関心な観客を相手に演奏に励んでいた時期にあたる。

ベニング氏は、手紙が書かれた「この時点では、レノンにとって人生はとてもシンプルだと感じた。ビートルズと音楽を演奏し、家に帰ってシンシアに会うだけだった」と語る。しかし、手紙が書かれるわずか9日前には、バンドのベーシストであったスチュアート・サトクリフが21歳で急逝しており、手紙は親友の死と、サトクリフの婚約者に会いに行くことへの不安に触れる箇所から始まっている。ベニング氏は、このシンプルだった時期が「わずか6カ月後には全てが変わり、人生は二度とあれほどシンプルにはならなかった」と述べ、手紙が捉えた時代の転換点を示唆した。

ジョンとシンシア、そしてジュリアン

ジョン・レノンとシンシア・パウエルは、この手紙が書かれた数ヶ月後の1962年8月に結婚した。翌1963年4月には二人の間に息子のジュリアンが誕生している。しかし、夫婦関係は変化し、二人はその5年後に離婚した。

1964年に撮影されたジョン・レノンと妻シンシア・パウエルの写真1964年に撮影されたジョン・レノンと妻シンシア・パウエルの写真

このラブレターは、世界的なスターとなる直前の若きジョン・レノンの私的な一面、そして当時のビートルズを取り巻く複雑な状況を伝える貴重な史料と言える。競売を通じて、手紙が持つ歴史的、感情的な価値が改めて注目されるだろう。

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