名優・杉村春子との一度きりの出会い 作家・五木寛之が忘れ得ぬ「何気ない一言」

昭和という時代を振り返る機運が高まる中、昭和を彩った傑出した女優たちが再び注目されています。その中でも、特に演技力に定評があり「名優」と称される一人に、文学座の中心的存在であった杉村春子さん(1906〜1997年)がいます。

作家の五木寛之さんは、生涯でたった一度だけ杉村春子さんと直接会った経験があると言います。その一度きりの短い出会いの中で、杉村さんから何気なくかけられた一言が、今も五木さんの心に強く焼き付いて離れないそうです。五木さんの著書『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)から、その貴重なエピソードの一部をご紹介します。この出会いが、五木さんの知人である別の名女優との関係性にも触れるきっかけとなりました。

たった一度の出会い:杉村春子との予期せぬ会話

名優・杉村春子さんと作家・五木寛之さんの出会いについて語られる記事をイメージした画像名優・杉村春子さんと作家・五木寛之さんの出会いについて語られる記事をイメージした画像

名優という言葉を聞いて、真っ先に頭に浮かぶ人物として五木寛之さんが挙げるのが、故・杉村春子さんです。新劇という演劇の枠を超え、俳優として圧倒的な存在感を放っていた方でした。偉大な俳優は、舞台の上だけでなく、日常のふとした場面でもその特別な実在感を示すものです。五木さんは杉村さんと一度だけお会いしましたが、その時の声のトーンや言葉の端々まで、今も鮮明に記憶していると言います。

それはおそらく、ある舞台の上演中にロビーの片隅で交わされた会話だったそうです。「五木さん!」と声をかけてきた女性が杉村春子さんであることに、五木さんは最初、すぐに気づきませんでした。舞台上で見せるあの強烈な存在感とは異なり、意外にもごく普通の中年女性に見えたからです。しかし、杉村春子という個性から放たれるオーラを前に、五木さんはまるで小学生のように戸惑いながら、「ハイ」とか「イイエ」と答えることしかできませんでした。

開演を告げるベルが鳴り、杉村さんは「それじゃあ」と頷いて立ち去ろうとしましたが、その一瞬、振り返り、五木さんに問いかけました。「あなた、トモコと仲良しなんだって?」。突然の言葉に、五木さんはどう反応してよいか分からず、ただ立ち尽くすばかりでした。杉村さんはそれを見て身を翻し、あっという間にその場から姿を消してしまいました。

奈良岡朋子との長い付き合い、そして杉村春子の問いの謎

作家・五木寛之さんの肖像写真作家・五木寛之さんの肖像写真

「トモコ」というのが、劇団民藝に所属していた女優、奈良岡朋子さんのことだと五木さんが気づいたのは、杉村さんが去ったほんの一瞬後のことでした。奈良岡さんは、五木さんにとって単なる女友達というよりも、人生の先輩と呼ぶべき存在でした。年に一度か二度会うたびに、五木さんに議論をふっかけてくるような、ある意味で「怖い」人でもありました。

「わたしのほうが先輩なんですからね」――これが彼女の口癖だったそうです。確かに五木さんより少し年上でしたが、まるで少女のように軽やかで、茶目っ気のある人でした。奈良岡さんのルーツは青森にあり、東京育ちでありながら見事な方言を使いこなしました。奈良岡さんが地元の言葉で詩を朗読すると、それはまるで歌のように響いたと言います。

「五木さんって、ダメな人ね」というのも、奈良岡さんのもう一つの口癖でした。彼女は自分でフォルクスワーゲンを運転しており、五木さんはできるだけ同乗しないように努めていたそうです。なぜなら、知的な外見からは想像できないほど、激烈ともいえる勇敢な運転をする人だったからです。

五木さんは奈良岡さんと50年近くもの長い付き合いの中で、数多くのことを教えられたと述べています。その意味でも、彼女は確かに五木さんにとって先輩と呼ぶにふさわしい存在でした。

五木寛之さんの著書『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』の表紙画像五木寛之さんの著書『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』の表紙画像

しかし、名優・杉村春子さんが、あの時どのような意図や含みをもって五木さんに「あなた、トモコと仲良しなんだって?」と問いかけたのかは、五木さんにとっても、今もって謎のままなのだそうです。たった一度の短い出会い、そしてその一言が、長年活躍した作家の心にこれほど深く刻み込まれていることは、杉村春子という女優の持つ特別なオーラと存在感を物語っています。

まとめ

この記事では、作家・五木寛之さんが自身の著書『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』の中で語る、名優・杉村春子さんとの一度きりの印象的な出会いを紹介しました。舞台上の姿とは異なる意外な一面、そして最後にかけられた「トモコと仲良しなんだって?」という謎めいた一言。この言葉が、五木さんと長年の友人である奈良岡朋子さんとの関係へと読者を導きます。奈良岡さんのユニークな人柄や五木さんとの師弟のような関係性が描かれる一方で、杉村さんの問いの真意は今もなお不明なままです。このエピソードは、偉大な人物たちのふとした言動が、受け手にとってどれほど忘れがたいものとなり得るかを示唆しています。

参照元