1930年代から60年代にかけて日本の映画界で燦然たる輝きを放った伝説の女優、原節子(1919-2015)。42歳での電撃引退後、鎌倉で静かな隠居生活を送り、95歳で亡くなるまで生涯独身を貫きました。その清らかなイメージから「永遠の処女」と呼ばれ、醜聞とは無縁だった彼女に、本当に恋愛の噂はなかったのか。そして、結婚が噂された小津安二郎監督との関係は?生誕105周年を迎えた今、往年の輝きと秘められた素顔に迫ります。(本記事は週刊新潮2004年12月30日・2005年1月6日号より再編集したものです)
圧倒的な「存在感」と近寄りがたさ
吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」(昭和22年)や「誘惑」(昭和23年)で脚本を手がけた新藤兼人氏は、当時の原節子の印象をこう語ります。「すごい存在感でした。近寄りがたく、言葉をかけるのも怖い感じがしたほどです。休憩時間に原さんが座っている姿は、まさに、ライオンが座っているような威圧感がありました。素晴らしい美貌で、まさにオーラを放っていましたね。顔が画面に映っていればそれで十分、他に何もいらないと思わせる存在でした」。彼女の持つ独特のオーラが伝わる言葉です。
伝説の女優 原節子氏 (1960年撮影) 輝きを放つその美貌と圧倒的な存在感
「おっかない義兄」が作った壁と転換期
原節子の義兄であり、映画監督でもあった熊谷久虎氏は、時に妹の出演作に意見しました。特に映画「誘惑」については、佐分利信演じる若き代議士が、結核療養中の妻がいながら、原節子演じる若い女性に恋をし、妻を捨ててしまうというストーリー展開に対し、「モラルに欠ける不道徳な作品だ」として問題視しました。熊谷氏は脚本の新藤氏に対し、「もう原節子をお前たちの映画には絶対に出さない」と強い調子で文句を言ってきたといいます。「あんなおっかない義兄さんが後ろ盾についていたら、普通の男性は誰も彼女に手出しできませんよ」。熊谷監督の存在が、原節子の周囲に無形の壁を作り、恋愛から遠ざけていた側面があったのかもしれません。そして昭和24年、女優・原節子にとって大きな転換期が訪れます。この年、小津安二郎監督との仕事が始まり、彼女の代表作となる多くの名画が生み出されていくことになります。
圧倒的な存在感を放ちながらも、私生活は謎に包まれ続けた原節子。「永遠の処女」と呼ばれた彼女の、秘められた恋愛や小津監督との関係は、今なお多くの人々にとって興味深いテーマであり続けています。
(本記事は週刊新潮2004年12月30日・2005年1月6日号より再編集したものです)