今年で戦後80年を迎える中、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄では、軍民合わせて20万人もの尊い命が失われました。集団自決や米軍からの暴力、日本軍兵士による現地住民への暴行など、その悲惨な実態は深く心に刻まれています。そもそもなぜ米軍は沖縄に上陸したのか、そして大本営(日本軍の最高統帥機関)は沖縄戦をどのように位置付けていたのでしょうか。この問いに迫るため、書籍『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』から、当時の日本軍の戦略思想とその背景にある意思決定を読み解きます。
沖縄戦の舞台となったサトウキビ畑
第32軍の編成と本土防衛を優先した大本営
1944年3月、沖縄を含む南西諸島の防衛を担うべく、日本軍第32軍が組織されました。当初、第32軍は沖縄本島に陸軍3個師団を配置し、米軍の上陸に対して水際での決戦を挑む作戦計画を立てていました。しかし、戦局の変化に伴い、44年11月には台湾の防備強化を理由に第9師団が台湾へ引き抜かれ、45年1月までに移動を完了しました。第32軍は大本営に増援を要請しましたが、大本営は本土防衛準備を優先し、1月下旬に増援を送らないことを通告したのです。
「皇土」防衛のための「前縁」とされた沖縄
この大本営の決定の背景には、1945年1月20日に天皇へ上奏され決定された「帝国陸海軍作戦計画大綱」があります。この計画では、作戦の目的を「皇土特に帝国本土の確保」と定めました。そして、沖縄本島以南の南西諸島などは「皇土防衛の為縦深作戦遂行上の前縁」と位置づけられたのです。敵がこれらの地域に上陸した場合、「極力敵の出血消耗を図り且敵航空基盤造成を妨害する」ことが目的とされました。つまり、沖縄は本土とは見なされず、本土防衛のための「前縁」として、敵に損害を与え時間を稼ぐ、すなわち「本土防衛のための捨て石」とされたのです。
天皇の「決戦」への期待と近衛上奏の却下
太平洋戦線で日本軍が次々と敗退する中、天皇は米軍に一撃を与えて状況を打開する「決戦」を軍に強く求めるようになりました。サイパンやフィリピンでの敗北で天皇の期待が叶わない中、45年2月、天皇は元首相ら重臣7人を個別に呼び、戦局についての所信を聴取しました。この時、元首相の近衛文麿は上奏文を提出し、「敗戦は最早必至」であるとして、「国体」(天皇制)を守るために「速かに戦争終結の方途を講ずるべき」だと提言しました。しかし天皇はこれを斥け、「もう一度戦果を挙げてから」と述べ、戦争継続の意思を示しました。天皇は、米軍に大きな打撃を与えることが、国体護持、すなわち天皇制の維持を保証すると期待していたのです。
まとめ
沖縄戦の悲劇的な結果は、単なる局地戦ではなく、本土防衛を最優先する大本営の戦略、特に沖縄を「捨て石」と位置づけた作戦計画に深く根ざしていました。兵力不足の中で、敵の出血を強要し、本土防衛の時間を稼ぐという目的のために、沖縄は犠牲を強いられたのです。また、当時の最高指導者であった天皇が「決戦」による国体護持に期待をかけ、早期終戦の提言を退けたことも、戦局の長期化と沖縄での悲劇に影を落としていたと言えるでしょう。
参考文献
- 山田朗『大元帥 昭和天皇』
- 山田朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』