お笑い芸人だんな松丘(本名:松丘慎吾)さん、55歳。かつて「坂道コロコロ」や「鼻エンジン」といったコンビ名で活躍し、90年代のお笑いブームを牽引した『ボキャブラ天国』(フジテレビ)や『爆笑オンエアバトル』(NHK)に出演し人気を博しました。しかし、相次ぐトラブルに見舞われ、お笑い界で「デスノート」と囁かれた彼の芸人人生は、まさに波乱万丈。今回は、彼の知られざるお笑いの道のりと、数々の改名騒動の裏側に迫ります。
お笑い芸人だんな松丘さん。彼の波乱に富んだ人生に迫る
夢を追い上京:お笑いへの道とホリプロでの出会い
松丘さんの芸人への道は、父親の一言「お前はおもしろいからお笑いをやれ」から始まりました。しかし、大阪の松竹芸能養成所に入学すると、まさかの俳優部に配属。ネタをすることもなく台本を読む日々が続き、お笑いを志す松丘さんにとっては違和感しかありませんでした。結局、その事務所を辞め、本気でお笑いを目指すために上京を決意します。
東京で新たなコンビを結成し、オーディションを経てホリプロに所属。当時の事務所は、ひどい人材でなければ合格できたというおおらかな時代だったと振り返ります。さまぁ〜ずさんやフォークダンスDE成子坂さんといった先輩たちとの出会いは、東京と大阪のお笑いの文化の違いを松丘さんに教えてくれました。特に、大阪流の挨拶「お先に勉強させてもらいます」に対し、さまぁ〜ずさんから「何を勉強するんだよ」とツッコまれたエピソードは印象的です。
事務所主導のコンビ名変更劇:『坂道コロコロ』誕生秘話
コンビ名は芸人にとっての顔ですが、松丘さんのコンビ名は度々、事務所の「大人の事情」によって変更を余儀なくされました。最初は「エンドレスフィニッシュ」でしたが、事務所から「わかりづらい」と強く叱責されます。そして、ライブの出番直前に事務所の先輩から「坂道コロコロです」と一方的に紹介され、自分たちの意思とは関係なくコンビ名が決定してしまいました。
「コンビ名を変えたい」という思いはあったものの、当時の事務所の雰囲気に逆らうことはできなかったと言います。しかし、さまぁ〜ずさんが「バカルディ」から改名してブレイクしたように、改名ブームが訪れると、今度は事務所の偉い人が光GENJIの歌詞から「しゃかりきコロンブス」を気に入り、「お前ら、坂道コロンブスにしろ」と命令。さらに、『ボキャブラ天国』ではヒロミさんから「お前らもっと明るい名前にしろ」と提案され、「エンヤコラさ」となるなど、彼のお笑い人生は常にコンビ名変更の波に翻弄され続けました。
『ボキャブラ天国』への執念と成功:人気番組の舞台裏
最高世帯視聴率24.5%を記録した人気番組『ボキャブラ天国』への出演は、松丘さんの芸人人生における大きな転機でした。しかし、同じホリプロからはすでに多くの先輩芸人が出演しており、当初は「枠がない」状態でした。それでも諦めなかった松丘さんは、毎週20本ものネタを制作会社にFAXで送り続けます。その執念が実り、2、3か月後にようやく連絡が入り、出演のチャンスを掴みました。
当時のスタッフは非常に厳しく、ネタ見せはまさに「地獄」だったと語る松丘さん。しかし、彼のネタはスタッフの前でも、そして本番でも大爆笑を巻き起こし、「メジャー」ランクに昇格。これにより、翌週からはネタを送らずとも出演できるようになり、大きなラッキーを掴みました。テレビ出演をきっかけに、通帳に振り込まれた「えええ」と驚くほどの金額は、彼の努力が報われた瞬間でした。
まとめ
だんな松丘さんの芸人人生は、お笑いを志すきっかけから、事務所との関係、そして人気番組での成功に至るまで、まさに波乱万丈でした。意図せず俳優部に入所したり、何度もコンビ名を強制的に変更されたりといった苦労を乗り越え、自らの手でチャンスを掴み取った彼の物語は、逆境に負けない強い精神と、お笑いへの情熱を示しています。彼の経験は、多くの後輩芸人や、困難に直面しながらも夢を追い続ける人々にとって、貴重な示唆を与えることでしょう。





