「結婚は恋愛の墓場」という言葉は、多くの人が耳にしたことがあるでしょう。芸術家の岡本太郎氏は、自身の著書『自分の中に毒を持て〈新装版〉』の中で、この通説に鋭く切り込み、結婚と恋愛の本質について語っています。社会の慣習や安定を求める結婚を厳しく批判し、真の「運命的な出会い」は別の次元にあると論じています。この記事では、岡本太郎氏の独特な結婚観と、彼がなぜ独身を貫いたのか、その思想に迫ります。
自宅アトリエで思索にふける芸術家・岡本太郎
なぜ「結婚は恋愛の墓場」と言われるのか
岡本太郎氏は、恋愛と結婚を全く異なるものとして捉えています。結婚すると、お互いに安心感が生まれ、緊張感が失われるため、もはや燃えるような感情はなくなってしまう。これが「結婚は恋愛の墓場」と言われる所以だと述べています。
さらに、結婚によって「家」を守るため、あるいは老後の「保障」を得るために子供を作るという行為を、彼は「すべて卑しい感じがする」と断じています。社会的なシステムに順応し、安定を求める結婚のあり方に対し、強い疑念を投げかけているのです。
独身を選んだ理由と真の生きがい
妻子を持つと、人は社会的なすべてのシステムに順応してしまう傾向がある、と岡本氏は見ています。しかし、たった一人であれば、うまくいくかどうか、どこで死ぬかなど知ったことではない、思いのままの行動が取れる自由があると言います。
家族というシステムによる保障がないことこそが、真の生きがいであると彼は考えていました。だからこそ、彼は自由に独身を貫く道を選んだのです。社会的な安定や保障ではなく、不確実性の中にこそ生きるエネルギーを見出していました。
この考え方を女性の側に当てはめるならば、社会的に偉くなりそうな人や将来の生活が安心できる人との結婚を選ぶのは、極端に言えば一種の売春行為であるとさえ述べています。安定の上に安住してしまった女性は、もはや「女」ではない、と痛烈に批判しています。恋愛は本来まったく「無条件」なものであり、そこに打算が入った時点で、それは空しいものになってしまうというのです。
運命的な出会いとは結婚相手のことではない
多くの人が、結婚する相手と出会うことだけが運命的な出会いだと思いがちですが、岡本氏は運命的な出会いと結婚は全く関係ない、と断言します。好きな人が他の人と結婚しようが、自分が他の人と結婚しようが、それは世の中の形式や約束事に過ぎないと言います。
ほんとうの出会いは、約束事を超えた次元にあります。それは、恋愛というものさえ超えたものかもしれない。つまり、自分が自分自身に出会うこと、相手が相手自身に出会うこと、そしてお互いが相手の中に自分自身を発見すること――それが岡本氏にとっての「運命的な出会い」なのです。
たとえ相手と別れていても、あるいは相手がこの世に存在しなくなっていても、この人こそ自分の探し求めていた人だと強く感じ取っている相手がいれば、それが運命的な出会いの対象になり得ると言います。必ずしも相手がこちらを意識している必要はなく、こちらが相手と出会ったと感じる気持ちそのものが、ほんとうの出会いであり、自己発見であると結論づけています。
まとめ
岡本太郎氏の結婚観は、社会の慣習や安定を求める一般的な価値観とは一線を画しています。彼は、結婚を形骸化したシステムと捉え、そこに打算や保障を求めることを「卑しい」と批判しました。そして、真の「運命的な出会い」とは、他者を通して自己を発見する精神的な営みであり、結婚という形式とは無関係であると説きました。彼の独身という生き方は、社会のシステムに縛られず、自己の内面と向き合い、不確実性の中に自由と生きがいを見出そうとした、彼の芸術活動そのものと深く結びついていると言えるでしょう。
参考文献
- 岡本太郎『自分の中に毒を持て〈新装版〉』青春文庫
出典