教育における「数値化」と「個性」:偏差値は敵か味方か【ドラゴン桜2】

人気受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、教育と受験のリアルを掘り下げる本連載。今回は、物語の中で重要なテーマとして描かれる「個性」と「数値化」の問題に焦点を当てます。主人公たちがスパルタ教師から投げかけられる厳しい言葉を通して、現代社会における評価のあり方、特に教育現場での偏差値や点数の意味について考察します。果たして、私たちの能力や価値は「数値化」されるべきなのでしょうか。そして、個性とはその数値とどう向き合うべきなのでしょうか。

「一番」を目指さない若者たち:オンリーワンの時代のホンネ

東京大学現役合格を目指す天野晃一郎と早瀬菜緒は、苦手な数学を克服するため、かつての伝説的な教師、柳鉄之介の指導を受けます。柳は「一番を目指さない若いヤツが大嫌いなんじゃあっ!」と熱血指導を展開しますが、これに対し天野と早瀬は強い反発を感じます。

柳が指摘するように、「熱中することがカッコ悪い」「競争が嫌い」「みんなと同じで十分」「そこそこの人生で満足」といった価値観は、確かに今日の若者の間に見られます。がむしゃらに努力する姿を見せるのは恥ずかしい、目立つと叩かれる、といった空気感が根強く残っていることも事実です。

考えてみれば、「1番にならなくてもいい理由」は社会中に溢れています。「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」という言葉は、あまりにも使い古されて耳慣れたフレーズです。このような環境の中で、ガツガツと数値を追い求める人が少なくなるのは、ある意味当然の流れかもしれません。

個性重視の裏側:デジタル社会と資本主義における「数値化された存在」

しかし、それで本当に良いのでしょうか。偏差値からの脱却、個性重視、点数にとらわれない教育といったスローガンは耳に心地よいものですが、私たちの社会そのものは、依然として数値を基盤に動いています。

デジタル化が進んだ社会では、個人の能力や実績はデータやスコアとして可視化されやすくなりました。また、資本主義社会では、その数値的な評価が収入や社会的地位に直結することが少なくありません。大学受験に限らず、私たちは日常生活のあらゆる場面で「数値化された存在」として扱われる機会が増えています。皮肉なことに、多様性が叫ばれる時代において、この数値化の傾向は強まっているようにも見えます。偏差値、テストの点数、様々なランキング――これらを完全に無視して生きることは、現実的には極めて困難です。

受験漫画『ドラゴン桜2』のカバーイラスト。教育における競争と個性、数値化のテーマを示唆。受験漫画『ドラゴン桜2』のカバーイラスト。教育における競争と個性、数値化のテーマを示唆。

偏差値や点数を「ものさし」として捉える:自己理解のための第一歩

もちろん、テストの点数や大学の偏差値といった、単一面的な基準だけで人間を総合的に評価することには限界があります。人間の持つ能力や個性は多岐にわたるからです。しかし、例えば数学のテストで80点という結果を得ることで、自分がその科目についてどれくらい理解できていて、どこが足りないのかを具体的に振り返ることができます。

つまり、数値という明確な「ものさし」があるからこそ、そこを起点に深く思考を巡らせることができるのです。自分の現在地を正確に把握するためには、まず何らかの指標が必要不可欠です。

だからこそ、数値による評価を頭ごなしに否定すべきではないと私は考えます。むしろ、それは成長や変化を可視化するための一時的な基準、有効なツールとして捉えるべきです。具体的に言えば、模試の偏差値や定期テストの点数といった評価軸は、学びの過程におけるあくまで「足場」であり、最終的な目的地ではないということです。

家を建てる際に一時的に設置される足場のように、建物が完成すれば取り外されます。それと同じように、偏差値や点数も、やがては自分自身の人格や能力を形づくるための「土台」としての役割を終え、卒業していくべき性質のものです。

真の教育の目的:他者との比較ではなく、自分自身を知ること

重要なのは、社会から提示された評価軸を一度しっかりと受け止めた上で、それらを活用して自分自身の揺るぎない軸を育てていくプロセスです。他者と比較して何点取ったか、偏差値がいくつだったか、という競争の結果だけに一喜一憂するのではなく、その数値を通じて、自分がどんな学びを得て、どんな能力や価値を身につけているのかを深く見つめ直す機会とすることです。

確かに、競争は時に辛く、避けたいと感じるものです。しかし、それは競争そのものが本質的に嫌いなのではなく、自己を表現する評価軸について熟考する時間すら与えられず、ただ参加を強いられるような「ステルス競争」に対する拒否反応にすぎないのかもしれません。

教育の本質とは、誰かと比べて優劣をつけることではなく、自分というユニークな存在を深く理解することにあるはずです。そして、その自己理解への第一歩として、私たちは目の前に提示される評価軸を恐れることなく、真正面からしっかりと受け止める勇気を持つべきだと、この記事は示唆しています。