NHK「ばけばけ」では、小泉八雲をモデルにしたヘブン(トミー・バストウ)が、松江中学校の教師として英語を教えるシーンが描かれている。八雲は、どんな授業をしていたのだろうか。ルポライターの昼間たかしさんが、当時の教え子たちの証言を集めた文献などから史実に迫る――。
■八雲は2人目の外国人教師だった
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」は、松野トキ(髙石あかり)とレフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)を中心に物語が進んでいる。こうした中で、やっぱり気になるのは八雲の教師生活。考えてみれば、それまでの八雲の仕事は記者で作家。松江での仕事は、いわば収入に困って飛びついたようなもの。
そんな八雲は、いったいどういう授業をしていたのだろうか。
まず、多くの人が誤解しているであろうことがある。それは松江での初めての外国人教師が八雲ではないということだ。
もともと、島根県の学校に外国人教師を招くというのは、1885年に着任した県知事・籠手田(こてだ)安定(やすさだ)の肝いりで始まったもの。これで最初に招かれたのがタットルというカナダ人であった。
タットルは1889年9月から翌年3月までの契約だったが、これを更新し1891年3月まで授業を受け持つ契約になっていた。ところが、この人物はとにかく教師としては酷い人物だった。当時の生徒の回想には、その授業がいかに酷かったかを記している。それによればタットルはとにかく寒がりで、特別の教室でストーブを焚いて授業をしていた。それでも、足らずに頭には頭巾を巻いての授業である。それだけなら、単なる寒がりで済むのだが、教え方も酷い。
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段々授業を受けますうちに、ストーブの前へ毛布を敷いて遂にはごろっと横になったという具合でした。これには我々、書生ではあったけれども、何だ先生たるものが、我々を馬鹿にしている。こんな先生はつまらんということになった。(『座談会・旧師小泉八雲先生を語る』松江中学校 1940年)
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■前任者は1年も経たずに「クビ」
『座談会・旧師小泉八雲先生を語る』は、昭和に入り壮年となった当時の教え子たちが、ざっくばらんに思い出を語ったもの。もともとが身内を集めての会合だったためか、とにかく発言が率直なのだが、タットルがいかに酷かったかも多く語られている。
授業で生徒に褒美を出すこともあるが、賞品はカナダの古新聞だったというからメチャクチャだ。証言では「教育程度、知識の程度が先生は低かったのでしょう」とまでいわれている。
そのあまりの酷さについに島根県でも解雇を決めた。西田千太郎の日記では1890年7月28日に「教授上不完全の点なきにあらざるを以て、本月限解雇」とある。そのため、後任を探すべく県知事の籠手田が上京したところ、文部省から推薦されたのが八雲だったというわけである。
つまり、招いた島根県として、今度は大丈夫か? と期待されていた人物だったというわけだ。
こうして八雲が教鞭を執ることになった島根県尋常中学校は、当時島根県で唯一の中学校であった。現在は学制改革で県立松江北高校となったが地域の名門に変わりはない。旧制中学校時代には若槻礼次郎・竹下登と総理大臣だけでも2人を輩出している。つまり、県内の優秀な生徒たちが集まる学校である。






